大仏の裏手にある戦死者の墓

慶応4年(1868年)、江戸幕府の滅亡に反発した旧幕府軍の一部と鎮圧に向かった新政府軍とが、市川・船橋周辺で激しく戦いました。
その折、鎌ケ谷大新田付近で、新政府軍側の佐土原藩(現宮崎県宮崎市佐土原町)の士分1名(俗名:蓑毛次右衛門)と兵糧方1名(俗名:巳之助)が戦死しました。
この場所には、その当時、佐土原藩の弔料により建てられた墓石と明治19年(1886年)に新政府軍側の戦死者に対して千葉県の官費で建てられた墓石があります。
この新政府軍と旧幕府軍の戦争による死傷者の数はわかっていません。
新政府側の兵士の墓は所々で確認できるものの、旧幕府軍の戦死者は、当時、墓石に名前を刻むことすら難しかったため、ほとんど確認できない状態です。
しかし、下総地方には幕府直轄の牧場があったなど旧幕府軍に与する傾向があり、一部で脱走様と呼ばれる旧幕府軍兵士の墓と思われるものも存在しています。