玖島城本丸跡
玖島城本丸跡
玖島城本丸内のこの場所に、大村家の藩主の1階建ての居宅が建っていた。
玖島城には、中央天守閣はなかったが、大村湾と、効果的に玖島城の場所を島のようにした、内掘と外堀のシステム(造り)により防御されていた。
玖島城は、1599年に、大村藩の初代大名藩主である大村喜前(1569–1616)の命により築かれた。
喜前は、関白であり、後の日本の事実上の統治者となった豊臣秀吉(1537–1598)から、1587年の秀吉による九州征伐を援護したとして称号を与えられた。
1598年の秀吉の死に際し、喜前は、ライバルの豊臣家と徳川家の間の権力抗争が繰り広げられることを予想して、大村家の支配を維持するための手段を講じた。
喜前は、大村湾に玖島城を建設することを命じ、これが完成すると、一族を、小さな内陸の城からもっと要塞化されたこの場所に移動させた。
玖島城本丸は、建物群の北側の、本土に最も近いところにあり、家臣の住まいとした、壁で囲まれた2つの屋敷群により守られた。
大政奉還が行われた1867年、徳川幕府は終焉を迎えた。
地方の藩主から権力を奪い、国の近代化を図ろうと、新明治政府により、多くの城を取り壊す命が下された。
玖島城のほとんどの建物は取り壊されたが、大村家は、玖島城の城内の北側の一角に建った小さな居所である梶山御殿を維持することを許された。
大村家最後の藩主である大村純熈(1831–1882)は、玖島城で生まれたが、その生涯のほとんどをのちの東京となる江戸で過ごした。
大村神社は、大村家の先祖代々を祀るため、1884年に、内陸の場所から玖島城の城内に移された。