大村喜前公遺徳碑
大村喜前公遺徳碑
大村喜前(1568–1616)は、キリスト教信仰を捨て、日本の支配権を得るために戦った別の分派として、日本の歴史の混乱期の舵を取った。大村神社の境内にある碑は、喜前が非常に危険な政権時期に大村家を導いた実用的な方法を記念したものである。
大村家初代藩主
国の関白である豊臣秀吉(1537–1598)による1587年の九州征伐に、病の父に代わり参戦したとき、喜前は19歳だった。
九州征伐は成功したが、喜前の父は同年に死去した。
喜前は、秀吉のリーダーシップのもと、大村藩の大名として確認された。
1598年の秀吉の死に際し、喜前は、ライバルの豊臣家と徳川家の間の権力抗争が繰り広げられることを予想して、大村家の統治を維持するための手段を講じた。
喜前は、大村湾に玖島城を建設することを命じ、1599年に完成すると、一族を、小さな内陸の城からもっと要塞化されたこの場所に移動させた。
同盟へのシフト
喜前が予想した通り、豊臣家に忠誠を誓う大名家が、徳川家康(1543–1616)を援護する者と敵対したために対立が生じ、その敵意が現在の岐阜県での関ヶ原の戦い(1600)で山場を迎えた。
喜前は秀吉を援護していたが、肥前国(現在の佐賀県と長崎県)からの3つの大名家と一緒に徳川側で戦うことを選んだ。
家康とその連合軍は勝利をおさめ、この勝利により、家康は、徳川幕府(1603–1867)のもと日本を統一した。
家康は、忠誠を誓ったこれらの将軍家に、褒美として、日本の地方の藩の大名藩主としての高い地位を与えた。
喜前とキリスト教信仰
喜前は、日本で最初のキリシタン大名である大村純忠(1533–1587)の子息であった。
喜前は、父と同様に、16世紀半ばに最初に南日本に到着したイエズス会の宣教師による洗礼を受けた。
しかしながら、喜前が大名になった後まもなくして、豊臣秀吉が、おそらく日本の政治・社会制度への脅威になるであろうと考えていたキリスト教の伝道を制限する命令を発した。
その命令の発出後まもなくして、喜前は大村藩からキリスト教の宣教師をすべて追放した。
徳川幕府がキリスト教信仰を違法とする命を発するよりもずいぶん早く、喜前は、1602年、公にキリスト教信仰を捨て、日蓮仏教に改宗した。
喜前は、父が大村藩の領土に建てた教会の取り壊しを命じ、その跡地に寺院と神社を建立した。
喜前は、1615年に病を患い、当藩のリーダーシップを子息の純頼に譲った。
喜前は、その1年後、48歳で死去した。