戦国時代の歴史を感じる貴重な遺構

三木城は、15世紀末に三木別所氏の初代当主、則治(のりはる)によって築かれたと考えられており、播磨国の美嚢郡三木にあり、平山城として知られています。別名として釜山城や別所城とも呼ばれ、播磨三大城の一つに数えられました。

三木城の歴史の中でも特に有名なのは、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)にかけて行われた「三木合戦」です。この戦いでは、三木城主別所長治と織田信長の部将羽柴(後の豊臣)秀吉の間で激しい戦闘が繰り広げられました。特に「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われ、城内の兵士や住民は極限の状況に追い込まれました。

三木城の構造は、本丸・二の丸を中心に、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害などで構成されていました。各曲輪が並立し、東西約600メートル、南北約700メートルの広さを誇ります。南側は山と谷、他の三方は崖に囲まれており、自然の地形を利用した防御性の高い城郭でした。

現在、三木城跡には本丸跡や伝天守台、井戸などが残されており、二の丸には資料館が建ち並び、訪れる人々に歴史の息吹を感じさせます。また、昭和30年頃まで新城には土塁や本丸側に数段の帯曲輪が残っていましたが、現在は宅地化されています。