
「有馬」といえば何を思い浮かべますか?やはりまずは、兵庫県にある温泉、名湯「有馬温泉」。古くから湯治場として知られ、日本有数の温泉地として今もなお繁栄しています。
そしてもう一つの「有馬」と言えば、毎年中山競馬場で開催されている日本中央競馬の重賞レースG1「有馬記念」ではないでしょうか。
「有馬記念」は年末の風物詩としてもすっかり定着していますよね。普段は勝馬投票券(馬券)は買わないという人でも、ちょっと宝くじ感覚で買ってみるか、なんてことも。
競馬をしない人でも、最近大人気のスマホアプリゲーム、通称「ウマ娘」(プリティーダービー)で「有馬記念」をご存知になった方も多いのではないでしょうか。

さて、そんな「有馬温泉」と「有馬記念」。この二つのものに共通する「有馬」の二文字。実は歴史を紐解いていくと、この二つの「有馬」には由来を同じくするストーリーがありました。
今回はそんな「有馬温泉」と「有馬記念」の由来と歴史を追ってみたいと思います。
Contents
『有馬温泉』日本最古の名湯
有馬温泉基本情報
交通アクセス、宿などについては以下にお問い合わせください。
TEL:078-904-0708(有馬温泉観光案内所)
『有馬温泉』は古くから愛される日本三古湯のひとつ
『日本書紀』によれば有馬温泉は「日本三古湯」の一つに数えられる古い歴史をもっています。
他の二つは道後温泉(愛媛県)と白浜温泉(和歌山県)といわれています。
同じく『日本書紀』によれば、舒明(じょめい)天皇や孝徳(こうとく)天皇が有馬温泉に行幸したとの記録があり、奈良時代以前に温泉の効能が知られていたのかもしれません。
奈良時代には僧行基(ぎょうき)は貧民救済のために湯屋を整備したといわれています。
枕草子にも登場する『有馬温泉』

また平安時代に清少納言が書いた随筆『枕草子』にも有馬温泉についての言及があります。
湯は、ななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯
ななくりの湯とは現在の榊原温泉(三重県)、玉造(たまつくり)の湯は現在の玉造温泉(島根県)です。
有馬温泉が湯治場として知られるようになったのは、鎌倉時代初期に仁西(にんさい)という僧侶が宿坊を整備したことに始まるといわれています。
現在でも有馬温泉のいくつかの宿の屋号に「坊」の字がついているのは、この当時の名残だそうです。
豊臣秀吉と『有馬温泉』

そして時代は下って戦国の世。
有馬温泉を大いに愛した武将がいました。それが豊臣秀吉です。
豊臣秀吉はしばしば有馬温泉に湯治のために足を運び、なんと合計9回も訪れたそうです。
豊臣秀吉は織田信長から中国方面の司令官に任じられており、播磨の豪族別所長治(べっしょながはる)を下したときに初めて有馬温泉に入湯したという記録が残っています。

これ以来、豊臣秀吉は有馬温泉をすっかり気に入り、千利休や毛利家の名将小早川隆景らを招いて「有馬大茶会」(ありまだいさのえ)といわれる大規模な茶会までも開いています。
この「有馬大茶会」は1950年になって復活し、豊臣秀吉の功績を讃えて毎年11月上旬に行われる有馬温泉の一大イベントのひとつになっています。

また豊臣秀吉の配下で、晩年は体調不良に苦しんだ弟秀長(ひでなが)や有岡(ありおか)城で1年あまり幽閉されて健康を害していた黒田官兵衛(かんべえ)が有馬温泉に湯治に訪れたといわれています。
また豊臣秀吉は有馬温泉のインフラ整備にも力を入れました。
特に慶長伏見地震(1596年)で有馬温泉は建物の倒壊だけではなく、温泉の温度が上昇してしまうなどの潰滅的な打撃を受けましたが、豊臣秀吉はその復興に尽力しました。これが現在の有馬温泉の基礎となっています。
江戸時代以降の『有馬温泉』

豊臣秀吉没後も有馬温泉は栄え、江戸時代の温泉番付では最高の評価をされています。
江戸時代後半になると、日本を代表する温泉地として武家や貴族などの高貴な身分のみならず、庶民の多くも訪れる人気の温泉になりました。
『有馬温泉』二つの湯 金泉と銀泉

有馬温泉には湯の色で分けた二つの源泉の呼び方があります。
金泉(きんせん)とは、湧き出し口では透明ですが空気に触れると赤褐色になる温泉で、冷え性、腰痛、神経痛や各種皮膚疾患に効果があるといわれています。
銀泉(ぎんせん)とは、透明な温泉で炭酸泉とラドン泉があります。
炭酸泉は高血圧や各種循環器系疾患に、ラドン泉はぜんそく、リウマチなどに効果があるといわれています。
(効果・効能につきまして詳しくは、有馬温泉観光協会公式サイトをご確認ください。)
日本中央競馬重賞レース G1『有馬記念』

そしてもう一つの有馬、日本中央競馬の重賞レース G1『有馬記念』は毎年年末に中山競馬場2,500メートルで実施されるレースで、創設当初は「中山グランプリ」と呼ばれていました。
有馬記念の出走馬については、ファン投票の得票上位馬が優先的に出走するようになっており、その年に活躍したサラブレッドが集まるまさにドリームレースです。

この有馬記念の前身となった「中山グランプリ」を考案し、実施したのが当時の日本中央競馬会理事長、有馬頼寧(よりやす)という人物です。
有馬記念の前身「中山グランプリ」を創設した有馬頼寧

有馬記念の前身である「中山グランプリ」を創設したのは有馬頼寧(明治17年(1884年)〜 昭和32年(1957年)です。
有馬頼寧は有馬伯爵家の生まれで、旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主です。
戦前の昭和初期には貴族院議員として政治活動を行っていました。「革新華族」(家族とは近代日本の貴族階級のこと。)と呼ばれ、日本の戦前、昭和の政界・農政・教育など多くの革新に尽力しました。また東京セネタースというプロ野球チームのオーナーとしても知られていました。
東京セネタースはその後、戦争の影響で翼軍(つばさぐん)と名を変えます。さらにその後も何度かの移転や解消などがありましたが、実は現在も北海道日本ハムファイターズとして存続しています。

さてそんな、日本のために尽力していた有馬頼寧ですが、戦後、GHQによりA級戦犯として逮捕拘留されてしまいます。しかしその後、無罪が認められ釈放となりましたが、公職追放令により政治活動はもとより公的な活動を制限されてしまいます。
追放が明けた1955年日本中央競馬会(JRA)の二代目理事長に就任します。理事長に就任した有馬頼寧は競馬施設改築、競馬国際協定加入、競馬実況中継放送の強化など、日本競馬の発展と大衆化に尽力しました。
そしてその集大成の一つとも言えるのが、ファンの投票という形で出走馬を選出する、有馬記念の前身である「中山グランプリ」の創設です。
1956年に第一回「中山グランプリ」が開催され大成功しますが、その1957年に有馬頼寧は急性肺炎のため72歳で急逝してしまいます。「中山グランプリ」は有馬頼寧の競馬への功績を讃えるため第二回から有馬頼寧の姓を冠した『有馬記念』と改称されました。
その後も有馬記念は競馬ファンのみならず、多くの人に知られる重賞レースとして愛されています。
有馬温泉と有馬記念 二つを繋ぐ『有馬』の地
さてここまで「有馬温泉」と「有馬記念」の歴史を簡単にご説明してきました。まだこれでは有馬温泉と有馬記念の関係は見えてきません。実はそこには、有馬頼寧のルーツにヒントがありました。
有馬頼寧の出身である有馬家(旧筑後国久留米藩主)の祖先は鎌倉時代と室町時代に挟まれた「南北朝時代」にまで遡ります。この時代は足利尊氏(北朝)が後醍醐天皇(南朝)と争った時代です。(足利尊氏についてはこちら:日本史上最悪だった男~足利尊氏もどうぞ。)

足利尊氏に従った武将に赤松円心(えんしん、俗名:則村)という者がいました。円心は尊氏を助け北朝の有力武将として播磨国(現兵庫県)の守護を務めていました。
その円心の三男則祐(のりすけ、またはそくゆう)も尊氏の孫にあたる義満を助け、大変信頼の厚い人物でした。

その則祐の五男が摂津国(現大阪府北部)「有馬」一帯の地頭に任命されます。そして代を経て氏を変え、土地の名前から有馬氏と名乗るようになりました。

そして戦国時代に入り、有馬則頼(のりより)と豊氏(とようじ)の父子は豊臣秀吉に臣従するようになり、播磨に領地を与えられ大名に名を連ねます。
有馬則頼は清須会議(信長没後の後継者決定会議)の際に豊臣秀吉の身辺を警護し、秀吉から感謝されたといわれています。

有馬氏は関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に味方し、丹波の一部と父祖伝来の地である有馬一帯に計8万石を領有するようになります。
さらに大坂の陣で有馬豊氏は再び功を挙げ、最終的に筑後国(現福岡県南部)久留米に21万石の大名となります。有馬氏は幕末までこの地で大名として存続し、明治維新後は華族に名を連ねます。そして有馬記念の創設した、有馬頼寧へと続くのです。
二つの有馬の由来は
もうおわかりですね。両者は土地の名前が由来なのです。
貴族や武士が定着した土地の名を自らの姓にすることはよくあることでした。
例えば室町幕府の足利将軍家は、清和源氏の嫡流源義家の血を引いていますが下野国(現栃木県)足利に土着したため、これを称するようになっています。(公式文書などでは源〇〇と名乗ります)
さらにこの「有馬」の地名の由来ですが、新しく開かれた谷間→新間→有間→有馬になったといわれています。なぜ漢字がこのように変化していったかは不明です。
このように日本人の姓と土地とは深く関連していることがあります。機会があればまたご紹介させていただきます。
執筆:Ju
歴史や地理に疎いわたしには読み応えたっぷりでした。