直江兼続「愛」を掲げた戦国武将の真意と生涯

直江兼続と愛の文字紋

直江兼続は、戦国時代を代表する智勇兼備の武将として名高く、特に戦国ファンにはお馴染みの、「愛」の兜で広く知られています。

この「愛」という言葉は、武田信玄や北条氏政の強大な武力に立ち向かい、故郷・越後を守るという彼の熱い情熱を示しています。

兼続の生涯を通じて、その「愛」の深さや意味を探ることで、彼の人生の中での出来事や選択をより深く理解することができます。この記事では、直江兼続の「愛」に焦点を当て、その背景や意味を詳しく探りっていきます。

漢字「愛」の文字紋

直江兼続といえば、「智勇兼備」で「義」を信条とした武将。
また知らない人でも「愛」の文字がデザインされた兜を見たことがあるのでは。
兼続の生涯を追いかけながら、なぜ「愛」なのか?その意味をみていきましょう。

(愛の文字紋画像出典:発光大王堂)

(最終更新日:2023/09/15)

直江兼続の生涯と功績

上杉景勝に仕えた直江兼続の肖像画

直江兼続

上杉家の大黒柱、直江兼続

生涯の主、上杉景勝との出会い

諸説ありますが、兼続は現在の南魚沼市に樋口家の長男として生まれます。樋口家は当地を治める上田長尾家の家臣で、家老を務める家であったともいわれています。

幼少期から利発な子で、上田長尾家の嫡男である長尾顕景(のちの上杉景勝)に小姓として仕え、雲洞庵(うんとうあん)という寺院で共に勉学に励みました。

越後上杉氏の系譜。上杉謙信と上杉景勝の血縁関係について記載してある。

長尾為景に長男(謙信)と長女(姉)があり、謙信の息子(景勝)は謙信の姉の夫である政景(上田長尾氏)の養子。

ちなみに兼続が生まれた1560年には尾張の国で、織田信長が今川義元を討ち取った、いわゆる桶狭間の戦いが起こっています。

景勝は、その母親が上杉謙信の姉であったことから実子のない謙信の養子となり、そのときに兼続も謙信の本拠地春日山城に同行します。

よく兼続は謙信に才を愛でられ、その教えを直接受けたと言われますが、記録に残っていないためそれが事実であるかどうかはよくわかりません。

しかしその後の行動を見ていくと、やはり謙信の思想が景勝、兼続に濃厚に受け継がれているように思います。したがって謙信を語らずして兼続は語れません。ということで上杉謙信について触れてみることにします。

「義」の武将 上杉謙信

戦国武将上杉謙信のイラスト。越後の虎と呼ばれた武田信玄や北条氏康らと争った

室町時代、越後の地は関東管領上杉氏の一族が守護を務めていました。その代官であった長尾為景が実権を奪い大名として自立します。

いわゆる下克上です。力のある下の者が上の者を倒す、という実力主義時代の真っ只中にありました。そんな中で為景の子である謙信(当時の名は長尾景虎)が家督を継ぎます。

謙信は、

依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す。」
(私利私欲で軍を動かすことはしない。ただ、道理が正しければ誰にでも力を貸す。『白河風土記』より)

と語ったといわれており、このあたりに「義」の武将といわれる所以があるようです。

謙信といえば武田信玄との川中島の戦いをはじめとした抗争が有名ですが、その原因は信玄によって領地を追われた北信濃の豪族たちの要望によって、彼らの領土を取り戻してやることが目的でした。

川中島の戦いで一騎打ちをしたといわれる上杉謙信(右)と武田信玄(左)の銅像

川中島の戦い(出典:写真AC、とちぎさん)

また北条氏康によって関東の地を追われた関東管領の上杉憲政を保護し、その姓と職を受け継ぎました。このため関東にもしばしば出兵し、北条氏の本拠地小田原城にまで攻め込むこともありました。

「敵に塩を送る」という有名な故事は敵対関係にあった信玄との間での出来事であるといわれています。

関東甲信越地方における上杉、武田、今川、北条の1560年頃の勢力図

「1560年頃の甲信関東地方の大名勢力図」

謙信は戦いの神である毘沙門天を厚く信仰し、旗印にも「毘」の文字を用いています。

その兵は天下屈指の強さを誇り、織田信長も外交を通じて細心の注意を払い、贈り物をするなどして戦いになることを恐れました。国宝の『洛中洛外図屏風』(狩野永徳作)は信長から謙信に贈られたものの一つで、現在も米沢市上杉博物館に収蔵されています。

後に実際に戦うことになりますが、織田軍は上杉軍に粉砕されます(手取川の戦い)。

また戦で不覚を取らぬよう願掛けをして、生涯女性を近づけませんでした。

しかしこのことが謙信没後の上杉家を思わぬ窮地に陥れる原因となります。

御館(おたて)の乱と謙信の後継者問題

春日山神社に上杉謙信以来、軍旗に使われている「毘」の文字が書かれた旗が立つ様子

手取川で織田軍を破った謙信は、室町将軍足利義昭の命を受け、大軍を率いて上洛を目指します。しかしその準備段階で急死してしまいました。

前述の通り妻帯しなかったため実子はおらず、そのかわりに養子が数人いましたが、誰を後継者にするかを決めていなかったため、家督争いが起こってしまいます。

景勝と景虎(北条氏康の子で同盟のための人質として越後に来ており、同盟は解消されたが謙信に気に入られ養子になった)の争いは、文字通り家中を二分する争いになります。

景勝はこの争いを制して家督を継いだものの、独立する家臣が出てしまうなど、国は衰退してしまいます。

そのうえ隣国には上杉家の混乱に乗じて越中の大半を制圧し、さらに武田氏を滅ぼした織田氏と関東の北条氏の勢力が迫り、滅亡の危機に瀕します。
しかし天は上杉を見捨てませんでした。

本能寺の変が起こったのです。

兼続、名家直江家を継ぐ

その前に兼続が直江の姓を名乗る経緯を簡単に触れておきましょう。

謙信の家臣に直江景綱という武将がいました。内外政に軍事に活躍し、大変重用されました。しかし跡を継いだ養子が家内の争いで落命してしまいます。そこで景勝は兼続を景綱の娘である船(せん)の婿養子として迎えさせ、直江の家を継がせました。

船は大変聡明な女性で、のちには夫婦で景勝の息子定勝を養育し、その定勝からは育ての親として慕われ、藩政にも影響力をもっていたようです。

豊臣秀吉への臣従

豊臣秀吉のイラスト。上杉景勝とは早い段階で友好関係を築いた

豊臣秀吉(出典:ねこ画伯こはくちゃん)

本能寺の変により、北関東・信濃に進出していた織田勢は撤退し、信濃は徳川・北条・上杉が争う戦乱の巷になります。そんな中で上杉と北条和議を結び、脅威を一つ減らしますことに成功します。

また越中に進出していた織田の家臣柴田勝家も中央での羽柴秀吉との後継者争いのため、上杉への侵攻が止まり、上杉家は危機を脱します。

秀吉は柴田との争いを制するために上杉と手を握り、上杉に越中へ軍事的圧力をかけさせ、柴田の有力な兵を越中に釘付けにすることに成功します。その結果、賤ケ岳の戦いで勝利を収め、秀吉は信長の後継者となりました。

こうしたことがあり、秀吉は早い段階で自分に従った景勝を信頼し、その側近である兼続ともども厚遇し「豊臣」の姓を与えたといわれています。

「旦那」としての直江兼続

当時の上杉家では、景勝を殿様・上様、兼続を旦那と呼んだそうです。筆頭の家臣として、上杉家の政治全般を取り仕切る立場にありました。

内政面では、田畑の開墾を奨励し、産業と商業の発展に尽力し、越後は謙信時代の繁栄を取り戻します。

外政面においては豊臣秀吉の天下統一事業に協力します。このときに兼続は、秀吉の側近で自分と似たような立場にあった石田三成と親交を結んだものと思われます。

この関係が後の上杉家の運命を左右します。

家康との対立 挑戦状「直江状」

秀吉の死後と家康の台頭

豊臣秀吉は諸大名を遠征や外交によって臣従させることに成功し、小田原攻めにおいて北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。これにより天下は安定しますが、それも長続きはしません。秀吉の死がつかの間の平和を再び緊張状態に変えてしまいます。

徳川家康のイラスト。家康は江戸幕府をつくった天下人

徳川家康(出典:ねこ画伯こはくちゃん)

秀吉は生前、自分の子(秀頼)が幼いため、有力大名による合議制で政権を安定させようとします。意思決定機関である五大老とその執行機関である五奉行の制度です。

五大老の中心は徳川家康。日本最大の領地を持つ大名であり、さらには戦国の世を生き抜き、秀吉にも戦場で一泡吹かせたこともある実力者。秀吉が没したとなれば、次の天下人は自分だといわんばかりに活動を始めます。

一方上杉家は秀吉の命により、越後から会津に国替になります。会津には秀吉の信頼が厚く武勇の誉高い蒲生氏郷が配置され、東北の押さえの役目を果たしていましたが、若くして没してしまいました。

東北地方は秀吉に臣従してから日が浅く、また上方からは遠隔地であり、そして一揆を扇動した疑いをかけられた前歴のある伊達政宗がいることから、それを監視できる実力と秀吉の信頼を兼ね備えた武将を置く必要があり、その条件に適うのが上杉景勝でした。

また景勝は五大老の一員にも抜擢され、豊臣政権下における重要な位置にありました。兼続も米沢に領地を与えられます。

そのような情勢のもと、家康は自らの勢力拡大を図ります。有力大名と婚姻関係を結んだり、恩賞を合議によらず独断で決めたりと、秀吉の遺言を無視して政治を行います。

それに反発したのが、秀吉子飼いの家臣であり五奉行の一員である石田三成です。三成は家康打倒のために策を練ります。そして思いついたのが、家康を東西から挟撃するという壮大なプランでした。地理的条件、自分との関係を考え、そのパートナーとして上杉家に白羽の矢を立てます。

前章でも触れたように、三成と兼続の間には親交があり、三成は上杉家の家風というものを理解していたのでしょう。そう依怙によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方へも合力す。」の精神です。上杉家なら秀頼のため、ということで力を貸してくれるはずであると。

記録には残っていませんが、両者の間にはなんらかの取り決めがあったのではないでしょうか。そして景勝と兼続は会津に帰国し、軍備を固めます。

直江兼続の挑戦状「直江状」

家康は、会津に戻り軍備を固める上杉家に対し、謀反の疑いがあるとして上洛を促す詰問状を送ります。以下の内容の詰問状を兼続と親交のある僧侶に託し返答を求めます。

巻物のイラスト

(画像出典:いらすとや)

特に重要な部分を簡単に触れると、

  • 隣国より再三謀反するのではないかとの報告が来ている。
  • なぜなら会津では武器を集め、城や橋を造り軍備を固めている。
  • なので、釈明のために早急に上洛してほしい。
  • 景勝が律義者であることは、秀吉以来知られたことで、家康もよくわかっている。
  • 前田家も釈明をして疑いを晴らしました。

最後の項目については、有力大名である前田家に対し、同じように謀反の噂があるとして、詰問をしました。前田家は家祖である利家が病没したばかりであり、その対応に苦慮します。

しかし利家の妻おまつ(出家して芳春院)は戦いになったら勝ち目がないと判断し、自ら人質となって大坂ではなく、家康の本拠地江戸に下ることにより解決を図りました。

つまり前田家は家康に屈服したのです。

しかし上杉家はそうはいきません。「武」を誇りとし、「義」を貫く家柄が次のような返答をさせたのです。これが世に名高い「直江状」といわれるものです。

その内容を抜粋して、以下にわかりやすく現代語訳して記載します。

  • 東国のことについて噂が流れ、内府(家康)様がお疑いになるのは残念です。しかし京都と伏見のような近い距離の間でもいろいろ問題が起こるのですから、遠国にいて、かつ若輩者の景勝について、つまらない噂が持ち上がるのは仕方がないことです。そのようなことはありませんので、どうぞご心配なく。
  • 景勝の上洛が遅れていることについてですが、国替えになってから日が浅いうえに、帰国してから大して時間が経っていません。これでは国の政務をみることができません。しかも当地は雪が深く、10月から3月の間はなにもできないのです。
  • 景勝に謀反の心がないことは起請文などなくとも申し上げられます。しかも昨年より数通の起請文が反故にされていますから、そんな意味のないことをする必要はないでしょう。
  • 秀吉様以来景勝が律義者であることを内府様がわかっていらっしゃるなら、いくら世の中変化が激しいとはいえ、今になって疑うのはおかしいじゃないですか。
  • 前田家の件は内府様の思うままになりました。さすがのご威光です。
  • 景勝には謀反の心なぞ毛頭ありません。讒言をする人をろくに調べもせずに信用し、こちらばかりを疑うというのはいかがなものでしょうか。讒言をした人間をちゃんと調べればわかることです。それもせず、逆心がないなら上洛しろなどというのは子供のような言い分で話になりません。
  • 武器を集めていることですが、上方の武士は茶器など人たらしの道具を集めているようですが、田舎武士は戦に備えて鉄砲や弓の準備をします。これは武士として当然のことだと思いませんか。そんなことを気にするとは天下を預かる人らしくもありません。
  • 国を持つ者にとって道や橋を整備して交通の便を良くするのは当然のことでしょう。それをもって謀反だという者は戦というものを知らない大馬鹿者です。隣国である越後は上杉家の元の領地であり、攻め込もうと思えば、道なぞなくとも簡単に踏みつぶすことができます。もし本当に謀反の心があるなら、むしろ道を塞いで防戦の構えをとります。
  • 上洛する必要があることはわかっています。このままでは、太閤殿下のご遺言に背き、起請文も破り、秀頼様をないがしろにすることになりますから、たとえこちらから兵を挙げて天下を取ったとしても、世間からは悪人と呼ばれてしまいます。それは上杉家末代までの恥辱ですから、そのようなことは考えていません。ただ讒言者の言葉を信じて不義の者扱いするのであれば仕方ありません。誓いも約束も必要ありません。
戦国時代の兵士たちのシルエットのイラスト

(画像出典:イラストAC 歩夢さん)

正々堂々と自らの正当性を論じ、家康の所業を皮肉り、言外に攻められるものなら攻めてこいという挑戦的な匂いが感じられます。

ただしこの直江状は江戸時代になって、徳川の出兵をより正当化するために内容が脚色されたのではと疑問を呈する声もあがっています。

それでも何らかの回答をしたことは間違いなく、結果として家康はこの回答に対し激怒、そして秀頼に逆心を持つ者を討つという名目で諸大名に動員をかけ、会津遠征を決意します。景勝と兼続は会津の地に徳川軍を迎え撃つべく、防備の完成を急ぎます。

賽は投げられました。

慶長出羽合戦:直江兼続VS最上・伊達

慶長出羽合戦の東北戦場における3勢力図。「北の関ケ原」と呼ばれている

「慶長出羽合戦略図」

家康は諸大名の軍を引き連れ東国に下向します。そして現在の栃木県小山市あたりで西国において三成挙兵の報せを受け、一転西国に兵を返し、伊達政宗と最上義光らに上杉を封じ込めるよう命を下します。

『名将言行録』によると、このとき兼続は景勝に家康を追撃するよう進言したが、景勝に「この度は家康が仕掛けてきたので、合戦の準備をしたのである。ここで追撃すれば、太閤殿下のご遺言に背き、天下の悪人になってしまう」と言われ言葉がなかったそうです。

しかし現実的には仮に追撃を試みたところで、背後に伊達・最上らがいるため、そのように軍を動かすことが不可能なのは明白であり、兼続ほどの武将がこのことを理解していないとは到底思えません。これは上杉景勝の義理堅さを表現するための後世の作り話ではないでしょうか。

上杉軍は攻めて来たら受けて立つという姿勢でした。しかし最上軍が上杉に攻め込むという情報を得ると、機先を制して兼続を総大将に上杉軍は最上領に攻め込み、その本拠地山形城に迫ります。

しかしここで思わぬ報告が上杉軍に飛び込みます。

石田三成が関ヶ原で敗れたという報せでした。

これが直江兼続の戦! 敵も賞賛する退却戦

慶長出羽合戦の激戦地、長谷堂城址の緑の多い地に地蔵が並ぶ様子

長谷堂城址(出典:やまがた観光情報センター)

上杉軍は山形城を目前にしながら長谷堂城という支城の攻略に手間取っていました。そこに関ヶ原の敗報が入り、兼続は自分の判断が上杉家に多大な迷惑をもたらしたことを感じ自害を考えます。

しかしこれから起こる退却戦を指揮し、少しでも損害を減らすために戦うことが上杉家のためであると考え、意を翻します。

戦闘というものは優劣がはっきりした後に損害が多く出るもので、退く側が損害を少なくすることは大変難しいものとされています。なぜなら勝っている側は手柄を挙げようとかさにかかって攻めてきますし、負けている側は気力も萎え、体力も消耗しているので討ち取りやすいからです。

自らも殿を務めるなど、苦戦を重ねながらも兼続は居城の米沢に帰城を果たします。その退却の様子を敵将の最上義光は絶賛し、後にこの話を聞いた徳川家康からも賞賛されます。

ちなみに退却戦といえば、関ヶ原の戦場でも後世に語られる壮絶な戦いがありました。「島津の退き口」と呼ばれるもので、島津義弘率いる1,000人程度の部隊が、徳川軍数万の敵中に突撃し脱出に成功した戦闘です。この退却戦は家康に大きな衝撃を与え、後に島津家を警戒する一つの要因にもなりました。

徳川家康への謝罪 和解へ

戦いに敗れた上杉家は、一転存亡の危機に陥ります。そこで景勝は兼続を伴い上洛し、家康に謝罪をします。家康はその謝罪を受け入れますが、会津120万石から米沢30万石と大幅に領土を削られてしまいます。

それにしても家康はよく上杉家を許したものです。関ヶ原の戦いのあと、家康に対し兵を挙げた石田三成は処刑され、また三成に与した大名の多くは厳しく処罰されています。家康に直江状を叩きつけ、喧嘩をふっかけた上杉家なら極刑に処されても仕方がないように思います。

(参考)西軍武将の処分

石田三成・小西行長・安国寺恵瓊:領地没収の上、斬首
宇喜多秀家:領地没収の上、八丈島に配流
長宗我部盛親・立花宗茂:領地没収
真田昌幸・信繁親子:九度山へ追放 など

もしかすると、家康に上杉の家風に畏敬の念があったのではないでしょうか。

家康は戦国の時代を生き抜き、直接戦うことはなかったものの、上杉謙信の人柄やその兵の強さを知っていたはずです。その「義」の心で徳川に仕えてほしい、そんな気持ちがあったかもしれません。

とにもかくにも上杉家は存続を許されました。そして兼続は米沢にて新たな問題と戦い始めます。

いかに家臣たちを養うか。

米沢藩の基盤を築く兼続

米沢藩の経済政策:財政難でもリストラはしない!

他家などでは領地を削られれば家臣を解雇するのが一般的でした。現代でも業績が悪化した会社は、人員削減をするものです。

しかし兼続の「このような大変な時期だからこそ人が大切である。皆で協力して復興を図るべきだ。」との考えから、昔からの家臣の首を切ることはしませんでした。当然財政は苦しくなります。

手を打たねばならない。

自らは率先して質素な暮らしをする中、まずは治水事業に取り組みます。

直江石堤の建設

青苧の原材料となるウコギの青々とした葉が茂っている

ウコギ(写真出典:写真AC、HiCさん)

米沢城下を流れる最上川はたびたび氾濫を起こし、それにより耕作ができない土地が広がっていました。それを治めるために巨大な石を積み上げ堤防を築きます。この堤防は直江石堤と呼ばれ、現在でもその姿の一部を見ることができます。

その結果耕作地が広がり、30万石と言われた米の生産高は実質50万石ほどになりました。

また産業としては、越後にいたときに生産をしていた青苧(あおそ)を米沢にも持ち込み、生産を奨励します。

カラムシとも呼ばれるこの植物は衣類に使う生地や漁網に使われ、謙信の時代から多大な利益をあげており、その後米沢でも貴重な収入源になっていきます。

また栗や柿の木、生垣にウコギを植えることを推奨しました。いずれも食用の木であり、またウコギは棘があるので、生垣に植えれば防犯の役にも立ちます。

このような細かいところにも心を配り、家臣たちの生活が成り立つように尽力しました。

直江家断絶と再評価までの道のり

直江兼続が眠る山形県米沢市、春日山林泉寺の兼続の苔むした墓所の様子

春日山林泉寺、直江兼続夫妻墓所
(写真出典:やまがた観光情報センター)

こうした内政の推進に加え、大坂の陣にも兵を率いて参戦し戦功をあげます。そして1620年江戸藩邸にて世を去ります。兼続は米沢市の林泉寺に眠っています。法名は「達三全智居士」。これは詩・文・武の三つに秀でたとの意味であり、兼続がまさに文武両道の武将であったことがわかります。

兼続と船の間には直明という男子がいましたが、体が弱く両親に先立っていたため、直江家は跡継ぎがなく断絶してしまいました。

これは兼続が意図的に断絶させたという説があります。内政の改革を進めたとはいっても、多くの家臣を抱える上杉家は常に財政が困窮していました。

その中で筆頭の家臣として一番多くの領地をもらっている直江家がなくなれば、少しは藩財政に貢献できるという考えからです。いかにも兼続らしい考え方のような気がします。

死後、藩での評価は低かったようです。

上杉家を誤った方向に導き、お家を窮地に追い込んだ奸臣、とまで言われることもあったようです。

名君上杉鷹山による直江兼続再評価

江戸時代を代表する名君、上杉鷹山公が正座している様子の像

上杉鷹山(写真出典:写真AC、えべっ☆彡さんさん)

兼続の死から約150年の後、上杉家の財政は困窮を極めており破綻寸前であり、実際ある藩主は幕府に領地返上をしようと真剣に考えたほどでした。そのような中、上杉治憲が藩主となります。後の上杉鷹山です。

鷹山は徹底した内政改革を実施します。そのときに参考にしたのが、上杉家が米沢に入部したときに兼続が推進した諸政策でした。

その結果莫大な借金を完済することに成功、藩の財政・民政は安定し、鷹山は後の世に江戸時代を代表する名君主として、日本はもとより海外にも知られるようになりました。

鷹山は兼続の200回忌の法要に、香華料を捧げたそうです。これにより兼続は名誉を回復します。きっと泉下の兼続も喜んだことでしょう。

文化人としての直江兼続

武将同士の交流:前田慶次と直江兼続

前田慶次は戦国時代のいわゆる「傾奇者(かぶきもの)」として有名ですが、実は教養人でもありました。京都で浪人暮らしをしていたころは、連歌会を自ら主宰したりして、多くの文化人と交流がありました。その中の一人が兼続で親交を結んだと伝えられています。

会津で軍備を固める際に兼続は慶次を一手の将として招き、上記慶長出羽合戦の退却戦では華々しい活躍をみせます。またそのとき、自害しようとした兼続を諫めたともいわれています。

その後も慶次は米沢の地にとどまり、連歌などを通じて兼続との交流を続けたようです。

「愛」の背景と意味

「愛」という言葉の語源と意味

現代では人を愛するというように、好きという感情を表現する言葉として使われますが、もともとは「愛し」、かなしという読みで、「かわいらしい」・「素晴らしい」といったような物や景色を形容する言葉として使われていることが多かったようです。我々が使っている意味と似てはいるものの、少し異なります。

とすると、兵や民に「愛」をもって接するといった意味ではなかったようです。

軍神信仰

軍神毘沙門天の像

毘沙門天(写真出典:写真AC、TTJさん)

戦国時代、多くの武将が戦いでの勝利を祈願して戦の神様たちを信仰していました。上杉謙信は1-1-2で書いたように、毘沙門天を崇拝しています。

その他にも戦の神様としては、摩利支天や不動明王など数々いますが、この時代、特に信仰された神様に「愛宕権現」がいます。上杉家はもちろん、そのライバルである北条氏、武田氏なども厚く信仰したといわれています。

また兼続は「愛染明王」を信仰したといわれています。愛染明王も戦の神で、現在でも新潟県小千谷市に兼続が崇拝したと伝わる愛染明王が祀られています。

つまり兼続の「愛」は戦の神への崇敬であるというのが現在の定説になっています。では愛宕権現なのか、愛染明王なのか、そこを考察してみます。

兼続のオリジナルか?景勝からの拝領品か?

直江兼続が崇拝したことで知られている、軍神愛染明王の坐像

愛染明王(写真出典:写真AC、fuku41さん)

以下のような推察が成り立つと思います。

  • 兼続独自の意匠であれば、愛染明王もしくは両方
  • 拝領品であれば、愛宕権現

入手した経緯についてはわかっていませんが、「愛」の字の下にある台座が銀の瑞雲で、これは上杉家の当主が着用するものにも同じ特徴が見られるため、おそらく謙信もしくは景勝から拝領したものではないかと言われています。

ということは、あの「愛」は愛宕権現が由来であると考えられます。そこには謙信が旗印に毘沙門天の「毘」の文字を刻んだことが影響しているように思われます。

他の武将との比較:兜に文字を刻む習慣

上杉景勝は、前立ての部分に卍が刻まれているものや摩利支尊天、日天大勝金剛、毘沙門天と書かれた兜が知られています。

片倉重長は、伊達家の家臣で大坂夏の陣で活躍し、またの名を「鬼小十郎」と言われた名将です。
重長は前立ての部分に愛宕権現のお札を貼り付けています。

いずれも戦いの神への崇敬という意味は同じです。この2者の兜は文字が書かれたものを付けただけですが、兼続の前立ては文字そのものをデザインしたものであり、かなり独創的なものといえるでしょう。

ちなみに兼続の兜と鎧は、米沢市の上杉神社稽照殿(けいしょうでん)で実物を見ることができます。

まとめ:兼続の「愛」とその生涯

米沢市マスコットキャラクター「かねたん」イラスト

米沢市マスコットキャラクター「かねたん」

大河ドラマで主役となり、また漫画「花の慶次」の影響もあって直江兼続は「義」に厚い武将として全国的に名を知られるようになりました。兼続が後半生を送った米沢市のマスコットキャラクターにもなっており、多くの人々から今も慕われています。

失礼ながら、一大名の一家臣がここまで知られ、尊敬されている例は他にはほとんどありません。

兜の「愛」の文字は戦の神への崇敬であったとしても、彼の生涯を振り返れば、兼続の上杉家への忠義、家臣・領民たちへの慈しみ、それはまさに現代的「愛」の姿勢といっても過言ではないでしょう。

執筆:Ju

2件のコメント

言わずと知れた「直江兼続」義をもって愛となす。徳川家康をも論破する
誠に志し高き人物。
なかなか、真似出来ない人物です。
いまの世にもなかなか存在しない強くて尊敬出来る数少ない人ですネ

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