変節漢?忠義者?~「城造りの天才」藤堂高虎

今治城は瀬戸内海に面した水城です
今治城(出典:写真AC 涼風さん)
藤堂高虎は何度も主を変えながら、ついには30万石の大名にのし上がりました
藤堂高虎像(三重県津市お城公園)

藤堂高虎(とうどうたかとら)という武将をご存知でしょうか?高虎は足軽の身分から30万石を超える大名になりました。

高虎は内政・外交・戦闘に優れた能力を発揮して戦国時代を生き抜き、特に城造りの天才・築城の名人として知られています。

しかしイマイチ人気がありません。それは高虎の経歴において、主君を何人も変えていることが原因になっているようです。

なぜ高虎は主君を次々と変えたのか?にもかかわらず最終的には大大名になることができたのか?

今回はそんな藤堂高虎の生涯を紹介いたします。

藤堂高虎が選んだ主人~近江で仕えた4人の主人 浅井・阿閉・磯野・織田

浅井長政は北近江の大名で織田信長に滅ぼされます
浅井長政

近江の土豪の家に生まれた藤堂高虎は最初この地の戦国大名①浅井長政(あざいながまさ)に仕えますが、足軽程度の身分でしかなかったようです。それでも織田信長と戦った姉川の戦いでは長政に知られるほどの功を挙げています。

しかし浅井氏が信長に滅ぼされると、浅井氏の旧臣で信長の家臣になった②阿閉貞征(あつじさだゆき)、③磯野員昌(いそのかずまさ)や信長の甥④織田(津田)信澄(おだのぶずみ)に仕えましたが長続きはしませんでした。

さすがにこうした状況では生活が困窮したらしく、こんな逸話が残っています。

無銭飲食? 藤堂高虎の旗指物の秘密

藤堂高虎は旗指物に餅を描き、困窮の時代を忘れないようにしていました

3つの丸が縦に並んだ藤堂高虎の旗指物(出典:戦国未満)

藤堂高虎の旗指物(はたさしもの)は3つの丸が並んだデザインです。

旗指物とは戦場で所属する軍や任務などを示す目印として戦国時代に用いられた旗です。戦国武士各々が様々な模様、デザインのものを使用しました。もともとは戦場での守護神の加護を祈い用いたものだそうです。

この高虎の旗指物の由来には一つの逸話が残っています。

空腹

出典:イラストAC ちょこぴよさん

織田信澄に仕えた後、仕官の道を求めて東に向かった藤堂高虎でしたが、ついに蓄えが尽きてしまいます。空きっ腹を抱えて彷徨していると、一軒の餅屋がありました。

高虎は金がないことはわかっていましたが、誘惑には勝てず店に入り餅を次々と平らげてしまいました。

店の主人はその様子を見て、この浪人が金を持たないことを察して料金を請求しないだけでなく、高虎に路銀を与えてやったそうです。

高虎はこの恩を忘れず、出世した後にその何十倍もの金銀を支払いました。またこのときの苦労と恩を忘れぬようにと、自らの旗指物には丸餅を3つ重ねた意匠を使い続けました。

藤堂高虎が選んだ5人目の主人~羽柴(豊臣)秀長〜

秀長は秀吉の異父弟で、後に秀吉政権を支える柱石的存在になります
羽柴(豊臣)秀長

仕えては辞める生活を送っていた藤堂高虎に大きな転機が訪れます。

それは⑤羽柴秀長に出会ったことです。秀長は羽柴(豊臣)秀吉の異父弟です。秀吉にとっては数少ない身内であり、また秀長自身も温厚篤実で武将としても優秀であったため、秀吉の右腕的存在でした。

賤ケ岳の戦いで柴田勝家を打ち破った羽柴秀吉は天下人の座に大きく前進します
賤ケ岳の戦い(歌川豊宣画)

秀長は高虎の才能を見抜き、戦場で積極的に高虎を使います。その期待に応えた高虎は、中国攻め、賤ケ岳(しずがたけ)の戦い、紀州征伐などの主要な戦闘で功を挙げ、秀長が紀州に領地を与えられると高虎も紀州の地に5千石の土地を拝領します。

藤堂高虎が初めて築いた城「和歌山城

和歌山城は高虎が初めて普請奉行を務めた城です
和歌山城(出典:写真AC あけびさん)

後に築城の名人と呼ばれるようになる藤堂高虎が初めて手掛けた城が「和歌山城」です。基本設計である縄張りは秀吉によって行われましたが、高虎は秀長から普請奉行、つまり建設責任者に任命されて約1年でこの城を完成させました。

和歌山城はこの後、浅野氏の支配を経て徳川御三家の一つ紀州家の本城となり、現在に至っています。

和歌山城の基本情報

多言語観光情報サイトGuidoor(ガイドア):和歌山城

和歌山城の場所と周辺マップ
和歌山県和歌山市一番丁3

和歌山城へのアクセス
JR和歌山駅からバス。公園前バス停下車(約15分)
南海和歌山市駅から徒歩約10分

電話番号 073-422-8979
(和歌山城天守閣)
和歌山城天守閣入場料 大人410円/小人200円(小・中学生)
※30名以上で人数に応じ、団体割引あり

 

茶室紅松庵/点出し一服 470円
紅葉渓庭園/無料
御橋廊下/無料

利用時間 9:00〜17:30(入場は17:00まで)
定休日 天守閣、紅葉渓庭園、御橋廊下
12月29日~12月31日

 

茶室紅松庵
12月29日~1月3日

駐車場 58台(無料)
公式サイト 和歌山城(和歌山市役所)

藤堂高虎、徳川家康と出会う

徳川家康はいわずとしれた天下人ですが、外様の高虎を重用します
徳川家康

羽柴秀長の下でその才を開花させた藤堂高虎でしたが、ここで運命の出会いを果たします。徳川家康との出会いです。

そのきっかけは家康が豊臣秀吉に乞われて直接対面を果たすときのことでした。この当時家康は秀吉に服従の意思を見せてはいたものの、まだ対面をしていませんでした。

天下統一を推し進めたい秀吉にとって、この対面は家康が秀吉に従うことを天下に示す非常に重要なイベントであり、自分の母や妹を人質に出すことまでしてようやく対面に漕ぎつけたのでした。

聚楽第は秀吉の居館として後陽成天皇の行幸など、重要イベントが行われていました
聚楽第屏風図(三井記念美術館所蔵)

そして秀吉は居城である聚楽第(じゅらくだい)に家康を迎えるための邸宅を造るように秀長に命じます。秀長は和歌山城築城の実績から高虎に奉行を命じました。

高虎がいざ建設にとりかかろうとすると、設計の図面に警備上の問題を見つけました。そこで高虎は独断で図面を変更しただけではなく、それによってかかった費用を自腹で賄い邸宅を完成させました。

設計
出典:いらすとや

後日家康から図面との違いを指摘されると、

「元の図面では警備の面で不安があり、徳川様に万一のことがあれば、秀長様・秀吉様の名前を汚すことになってしまいますので、私の一存で変更いたしました。もし私の処置がお気に召さないようでしたら、どうぞお手討ちにしてください。」

と高虎は申し開き、その言葉に家康は感心したといわれています。

この出来事が後の家康との関係に密接にかかわってきます。

藤堂高虎が選んだ6人目と7人目の主人~豊臣秀保と秀吉〜

豊臣秀吉も高虎の才能を高く評価していました
豊臣秀吉

その後も高虎は秀長に従って戦場を駆け回り、九州征伐でも功を挙げます。そして小田原征伐の成功により秀吉の天下統一が達成されますが、その後間もなく秀長は他界します。

秀長の後を養子の⑥豊臣秀保(ひでやす)が継ぎますが、この秀保は若くして亡くなってしまい、秀長の家は後が絶えてしまいます。

秀吉は高虎の有能さをよく知っていたので、これを契機に高虎を直臣として取り立て、伊予国宇和島に領地を与えます。これにより⑦豊臣秀吉が新たな主となります。

藤堂高虎が築いた城「宇和島城」

宇和島城は高虎が自分の居城として建てた城です
宇和島城天守閣(出典:写真AC TECHDさん)

藤堂高虎が築いた、愛媛県宇和島市にある宇和島城。かつては鶴島城(つるしまじょう)と呼ばれていました。美しい天守は昔の姿と変わらぬまま現代にまで残る大変貴重な城です。日本に現存する12天守のひとつです。

宇和島城の特徴は海に面した自然の地形を活用した五角形の城郭です。これは高虎の独創で、城郭が四角形であると錯覚させて死角を作るためのものといわれています。事実、江戸幕府の隠密(スパイ)はこの城の城郭は四角であると報告しています。

また現在は埋め立てられていますが、海に面していたため堀には海水が引き込まれていました。

宇和島城の基本情報

多言語観光情報サイトGuidoor(ガイドア):宇和島城

宇和島城の場所と周辺マップ
愛媛県宇和島市丸之内1-127

宇和島城へのアクセス
JR予讃線宇和島駅から徒歩で「城山登山口」へ約10分

宇和島バス1番乗り場乗車3分
「南予文化会館前」or「宇和島バスセンター」降車

電話番号 0895-22-2832
0895-22-3904(郷土館)
宇和島城天守閣入場料 大人200円/中学生以下無料
利用時間 開門(3~10月) 6:00~18:30/(11~2月) 6:00~17:00
天守閣(3~10月) 9:00~17:00/(11~2月) 9:00~16:00
定休日 無休
駐車場 あり(有料)
公式サイト 宇和島城(宇和島市観光物産協会)

藤堂高虎が選んだ8人目の主人~徳川家康〜

豊臣秀吉が亡くなると藤堂高虎は⑧徳川家康に接近します。家康とは先の逸話から交際があり、家康が上杉討伐のために兵を東へ進めると高虎も進んでこれに従います。

関ヶ原の地で家康と三成が激突しました
関ヶ原古戦場

その後石田三成を討つために家康が軍を西に返すと、高虎は先鋒を務め家康の勝利に貢献します。

戦後、高虎はこの功によって同じ伊予国の今治を領地として与えられ、20万石の大名に立身します。

藤堂高虎が築いた城「今治城」

今治城は瀬戸内海に面した水城です
今治城(出典:写真AC 涼風さん)

藤堂高虎が築いた城今治城は愛媛県今治市にあります。別名「吹揚城(ふきあげじょう)」とも呼ばれるこの城の特徴は、こちらも宇和島城と同じく堀に海水を引き込んだ城で、海から船が直接この堀に入ることができる構造になっていることです。

今治は瀬戸内海の交通の要衝であったため、それを押さえるためにこのような城を築いたものと考えられます。

今治城の基本情報

多言語観光情報サイトGuidoor(ガイドア):今治城

今治城の場所と周辺マップ
愛媛県今治市通町3-1-3

今治城へのアクセス
予讃線「今治駅」から『せとうちバス』「今治営業所行き」で「今治城前」下車約9分

今治港から徒歩約10分

電話番号 0898-31-9233
入場料 一般 520円、学生 260円、その他割引等有
利用時間 9:00~17:00
定休日 12月29日/12月30日/12月31日
駐車場 有り (バス10台、自家用車56台)
公式サイト 今治城(今治市文化振興課)

徳川家の「忠臣」藤堂高虎

藤堂高虎は徳川家康から厚い信頼を勝ち取ることに成功しました。

江戸幕府において大名は親藩(徳川家の一門)・譜代(古くから徳川家に臣従している家)・外様(それ以外)と分類され、外様大名に幕府の重要な役割を与えることはありませんでした。

高虎は外様に該当しますが、家康はその能力と忠義の厚さからその枠を超えて高虎を譜代大名と同様に扱い、幕府の役職に就けこそしないものの、重要な仕事を与えます。その多くが城造りです。

藤堂高虎が築いた城「江戸城」

太田道灌は室町時代の築城名人として知られています
太田道灌像(出典:写真AC 松波庄九郎さん)

江戸城は室町時代後期に太田道灌(どうかん)によって築かれた城です。(太田道灌についてはこちら:山吹の花と文武両道の名将太田道灌
しかし徳川家康が江戸に入った当初は荒れ果てており、改修をしたものの近世城郭にはほど遠いものでした。

しかし家康は諸大名を動員して天下人の城として整備できるだけの権力を手中にしました。そこで家康は藤堂高虎に基本の縄張りを命じて、それに家康が修正を加えるかたちで江戸城の設計をしたといわれています。

現在は皇居となっている江戸城は、江戸時代初期に徳川家康によって造られました。その原型を造ったのが太田道灌です。
皇居(旧江戸城)(出典:東京デート)

高虎が造ったというのは大袈裟かもしれませんが、関わりがあったことは間違いないようです。(実際、石垣の普請は行っています)

家康という慎重の塊のような人物が天下の主の住むところについて関与させたほどですから、家康の高虎への信頼の度合いがわかるというものです。

藤堂高虎が築いた城「膳所城」

膳所城は琵琶湖の湖面に天守閣があった城です
膳所城跡公園(出典:写真AC KI-TSUさん)

藤堂高虎が現在の滋賀県大津市に築いた「膳所城(ぜぜじょう)」。琵琶湖湖畔に築かれた「瀬田の唐橋(せたのからはし)」の近くにある城です。

「瀬田の唐橋」は東から京都に向かう入口にあたり、壬申の乱や源平合戦など古来の戦乱には必ずと言っていいほど登場する重要な場所であったため、家康がこの地に城を築くように高虎に命じました。

瀬田の唐橋は京都への入り口であり、壬申の乱や源平合戦などで激戦地となりました
瀬田の唐橋(出典:写真AC kimtoruさん)

この膳所城の特徴は、琵琶湖の中に石垣を作り上げてそこに本丸を築き、琵琶湖の湖水を天然の堀として利用していたことです。島根県松江市の「松江城」、長野県諏訪市の「高島城」と並ぶ日本三大湖城の一つです。

膳所城の基本情報

膳所城の場所と周辺マップ
滋賀県大津市本丸町7

膳所城へのアクセス
京阪電鉄/石山坂本線 で「膳所本町駅」下車 徒歩約7分
JR琵琶湖線 「大津駅」 下車 バス 15分 膳所公園

駐車場:普通車10台

電話番号:077-522-3830(大津駅観光案内所)

公式サイト:滋賀県観光情報びわこビジターズビューロー 膳所城跡公園

藤堂高虎が築いた城「篠山城」

篠山城は大坂の豊臣氏と西国大名を監視するために築かれました
篠山城(出典:写真ACあけびさん)

藤堂高虎が築いた「篠山城(ささやまじょう)」は山陰道の要衝である丹波篠山盆地にあり、これは西国大名の監視と大坂の豊臣氏をけん制する目的で築城されました。(場所は現在の兵庫県丹波篠山市)

篠山城には内堀と外堀があり、内堀内に本丸と二の丸を設けていました。二の丸を囲む土塀は狭間の死角を少なくするために屏風折りに外側に突き出すような造りになっているなど、様々な工夫が施されていました。

篠山城築城当初から天守台はありましたが、なぜか最後まで天守は建設されることはありませんでした。これは完成した城の造りがあまりにも堅牢であったので、幕府が懸念を抱いたためだと言われています。

篠山城の基本情報

篠山城の場所と周辺マップ
兵庫県丹波篠山市北新町 669-2332

篠山城へのアクセス
JR福知山線「篠山口駅」より神姫バスで「二階町」下車から徒歩約15分

電話番号 079-552-4500
入場料 篠山城大書院入館料
大人400円/高校生・大学生200円/小中学100円(団体割引あり)

 

歴史館4館共通入館券
大人600円/高校生・大学生300円/小中学生150円

歴史美術館・武家屋敷安間家資料館・青山歴史村・篠山城大書院のセット
・共通券は2日間有効
・歴史美術館が特別展のときは、料金が異なる場合あり

※天守台・本丸・二の丸は無料開放

利用時間 9:00~17:00(最終入場時間16:30)
定休日 毎週月曜日(祝祭日開館、翌日休館)
年末年始(12月25日〜翌年1月1日)
駐車場 あり(有料)
公式サイト ウィズささやま 篠山城大書院

藤堂高虎のさらなる出世 伊賀上野へ

これら築城の功により藤堂高虎は、伊賀忍者で有名な伊賀上野(いがうえの)に転封となります。緊張が高まりつつあった豊臣氏への押さえを期待されたものであったようです。

高虎はこの時、伊賀の国(三重県西部)10万石、伊勢(三重県の大部分)の内10万石、伊予(愛媛県)の内2万石、合わせて22万石を与えられました。

藤堂高虎が築いた城「伊賀上野城」

伊賀上野城は後の大坂の陣を意識して改修され、高い石垣が特徴になっています
伊賀上野城(出典:写真AC ゲタゲタさん)

藤堂高虎によって築かれた伊賀上野城の特徴は、高さ約30メートルにもなる石垣でしょう。これは当時日本最大の城郭であった大坂城に肩を並べる規模のもので、大坂城の存在を意識した作りになっています。

この城を築くために高虎は伊賀忍者を使って日本中の城のデータ集めをして、それらを参考にしたという伝承も残っています。

伊賀上野城の基本情報

伊賀上野城の場所と周辺マップ
三重県伊賀市上野丸之内106

伊賀上野城へのアクセス
JR「伊賀上野駅」より伊賀鉄道で約7分「上野市駅」下車➡︎徒歩約8分
近鉄「伊賀神戸駅」より伊賀鉄道で約25分「上野市駅」下車➡︎徒歩約8分

電話番号 0595-21-3148
入場料 大人600円/小人300円(団体割引あり)
利用時間 9:00~17:00(最終入場時間16:45)
定休日 12月29日〜12月31日
駐車場 あり
公式サイト 伊賀上野城

藤堂高虎「大坂の陣」で大きな手柄を立てる

大坂の陣において豊臣氏は滅亡します
大坂の陣図屏風(大阪城天守閣所蔵)

藤堂高虎は大坂の陣にも兵を率いて参軍します。特に夏の陣においては、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の軍と激突し、多大な犠牲を払いながらもこれを打ち破ります。

この功績を褒め称えた徳川家康は「国に大事がある時は高虎を一番手とせよ。」という言葉を残しました。

このことが徳川家の吉例となり戦乱が起こった場合には譜代は井伊家、外様は藤堂家が先鋒を務めるのが軍法となりました。

藤堂高虎が築いた城「津城」

津は交通の便がよく、後に伊勢参りの拠点として賑わいました
津城(出典:写真AC チャコさん)

大坂の陣が終わると藤堂高虎は交通の便が良い津に居城を移します。「津城(つじょう)」は北の北は安濃川、南の岩田川を天然の大外堀とした輪郭式平城です。津城は現在の三重県津市にあり、高虎によって大改修が行われ近代城郭となりました。

豊臣氏が滅んだことにより大きな戦はなくなると考えた高虎は、軍事拠点としての城というよりは、城下町を復興させて政治経済拠点としての城に重点をおいたものだと思われます。

これによって栄えるようになった津は、伊勢音頭において次のように歌われています。

伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ

津城の基本情報

津城の場所と周辺マップ
三重県津市丸之内33-5

津城へのアクセス
近鉄名古屋線「津新町駅」下車 徒歩約15分

電話番号 059-246-9020
(津市観光協会)
入場料 無料
利用時間 9:00~17:00(最終入場時間16:45)
定休日 12月29日〜12月31日
駐車場 あり
公式サイト 津市観光協会レッ津ゴー旅ガイド:津城跡

多くの主君に仕えた築城の名手「藤堂高虎」の晩年

藤堂高虎が選んだ9人目と10人目の主人〜徳川秀忠と家光〜

徳川秀忠と家光は家康の後を継ぎ、江戸幕府を盤石なものとしました
徳川秀忠と家光

藤堂高虎は徳川家康亡き後も徳川家への忠義を貫き、⑨秀忠・⑩家光からも信頼されます。ちなみに高虎は家康死去の際に、外様大名として枕頭に侍ることを許された数少ない一人です。

晩年は内政に力を注ぐとともに幕府への忠勤も欠かさず、家光の時代に世を去りました。

藤堂高虎が築いた城「二条城」

二条城は江戸幕府のはじまりと終わりの場所です
二条城二の丸御殿と唐門(出典:写真AC あけびさん、ktnoontea777さん)

大坂の陣後、藤堂高虎は徳川秀忠の命により二条城を改修しました。もっともこの改修については、高虎は改修案を2案提示して、秀忠が一方を選び最終決定をしたため、秀忠による改修ということになっています。

徳川家への忠義を貫いた高虎らしく、将軍に花を持たせたということでしょう。

二条城の基本情報

二条城の場所と周辺マップ
三重県津市丸之内33-5

二条城へのアクセス

【電車/京都市営地下鉄】
「京都駅」➡︎地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」(約6分)➡︎地下鉄東西線「二条城前駅」下車(約2分)➡︎徒歩すぐ

【電車/JR】
「京都駅」➡︎JR嵯峨野線「二条駅」(約5分)➡︎徒歩約17分

【市バス】市バス9・50号系統/急行101号・111号(二条城・金閣寺Express)系統
「京都駅前」➡︎「二条城前」(約16分)➡︎徒歩すぐ

【三条京阪駅から京都市営地下鉄】
「三条京阪駅」➡︎地下鉄東西線「二条城前駅」(約6分)➡︎徒歩すぐ

【阪急烏丸駅から市バス】市バス12号系統・急行101号系統
「四条烏丸」➡︎「二条城前」(約9分)➡︎徒歩すぐ

電話番号 075-841-0096
入場料 入城料/二の丸御殿観覧料
一般1,030円/中高生350円/小学生200円

 

展示収蔵館観覧料
100円

入城料のみ
一般620円

利用時間 8:45~16:00(閉城 17:00)
定休日 休城日
12月29日〜12月31日

 

二の丸御殿
12月26日~28日/1月1日~1月3日
毎年1月・7月・8月・12月の毎週火曜日
※当該日が休日の場合翌日休止

駐車場 あり
公式サイト 世界遺産 元離宮二条城

数字をふりましたが、藤堂高虎は10人もの主(ただし代替わりも含む)に仕えてきました。様々な苦労が絶えなかったことでしょう。このため高虎は家臣に対しても相手の気持ちを理解してやる寛容さを持ち合わせていました。

藤堂高虎の家臣への思いやり

ある家臣が他家に仕えようと藤堂高虎に暇乞いをしました。すると高虎は引き留めるどころか快く送り出し、もし行った先が気に入らなければ帰って来いと言葉をかけてやったのです。

後日その者が新たな仕官先で失敗をして高虎に帰参を願ったところ、元通りの所領を与えて再び召し抱えたそうです。

高虎は人に情けをかけてやれば、その者は死ぬ気で働いてくれると語っていたそうで、人に使われる者の心をわかっているといえるでしょう。

そんな高虎が家臣に禁じたことがあります。それは「殉死(じゅんし)」です。

切腹
出典:いらすとや

この時代、仕えている主が死んだら家臣もその後を追うというのは武士の美徳とされていました。しかしそれは同時に新たな主にとっては老練の家臣を失うということであり、大きな損失でした。

高虎は家中の者に殉死を禁止するにあたり、家康に申し出て家康の言葉をもって禁止させたのでした。

江戸幕府が公式に殉死を禁じるのは4代将軍家綱の時代です。

手間暇を掛けなければ人材は育たない。そしてその人材がまた新たな人材を手間暇かけて育てなければ主家を支える家臣団が形成されない。そのことを高虎はよく理解していたといえるでしょう。

徳川家に仕えた同僚たちの藤堂高虎評

藤堂高虎は同じ徳川家に仕えている者たちからはあまりよくは思われていなかったようです。主を何度も変えていることが主な原因ですが、家康からのあまりにも厚い信用が嫉妬を招いた面もあると思います。

加藤清正は高虎と並び築城の名人といわれています
加藤清正像(出典:写真AC HiCさん)

秀吉子飼いの三人の大名、加藤清正、福島正則、加藤嘉明(よしあき/よしあきら)はひどく高虎を嫌っていたといわれています。

藤堂高虎と賤ヶ岳の七本槍「加藤嘉明」

加藤嘉明は賤ヶ岳の七本槍の一人で、築城の名手としても知られています
加藤嘉明像(愛媛県松山市 出典:写真AC 松波庄九郎さん)

加藤嘉明(よしあき)は豊臣秀吉に引き立てられた武将でいわゆる子飼いの一人です。嘉明は高虎も出陣した豊臣秀吉と織田家重臣の柴田勝家との間で行われた賤ヶ岳の戦いで手柄をたて「賤ヶ岳の七本槍」七将の一人に数えられた戦国大名です。

藤堂高虎とは領地が隣だった関係や戦場でのいさかいがもとで不仲であり、そのことは誰もが知る事実でした。(領地が接していると境目を巡る争いが必ずと言っていいほど起こるため、例外的なものではありません。)

東北の要衝である会津藩が改易になったため、秀忠は後任をどうするべきか高虎に尋ねました。すると高虎は嘉明を推薦します。

松山城は現存12天守の一つで重要文化財に指定されています
加藤嘉明が築いた松山城(出典:写真AC sinjiさん)

もちろん秀忠も二人の不仲を知っていたので理由を聞くと「嘉明との不仲は私事ですが、会津のことは天下にとって重要なことであり、私事なぞ捨てるべきです。嘉明のような歴戦の武将こそふさわしいと思います。」と答えました。

このことを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したといわれています。

藤堂高虎没後の藤堂家と幕末から近代日本

高虎没後も藤堂家は津の地を動くことなく幕末を迎えます。

そして大政奉還後に勃発した鳥羽伏見の戦い。先述の吉例に従って藤堂家も旧幕府軍として出陣し薩長を中心とする新政府軍と激突します。

大砲
出典:写真AC TECHDさん

最新装備の新政府軍は兵力では劣るものの戦いを優位に進めます。すると藤堂家はあっさりと新政府軍に寝返り背後から旧幕府軍に砲撃を加えたため、旧幕府軍はこの戦いに敗れ、この後の戊辰戦争で完全に守勢に回ることになります。

このとき旧幕府軍の人たちは口々に「さすがは藩祖(高虎)が藩祖だけある」とその裏切りを罵ったそうです。

日本の歴史で振り返る「藤堂高虎」の評価

藤堂高虎と言えば城を造るのは上手いが、次々と主君を変える変節漢というような悪いイメージがついてまわります。

高虎は足軽の身分から這い上がりました。実力第一主義の戦国時代において、自分を高く評価してくれる主を求めるのは当然のことでしょう。

例えば豊臣秀吉は高虎よりさらに下の身分で、織田信長の前に他の主に仕えたことがあります。しかし秀吉は信長という自分を認めてくれる主に早く出会い、その後は信長一筋で仕えたため、高虎のような評価をされることはありません。

足軽
出典:いらすとや

もし信長に出会うことが遅れていれば、きっと秀吉も高虎のように主君を次々と変えていたでしょう。なぜなら自分の才能に自信があるうえに、そのようにしても失うものがないからです。

高虎の場合、羽柴秀長に出会うまで時間がかかりました。自分を高く評価してくれる秀長の下では懸命に働き、秀長が没した後も後継者が死ぬまでその家にとどまりました。徳川家への忠義も家康が高虎を重用したからこそのことです。

ごますり
出典:いらすとや

もっとも高虎は先述の二条城の件や、家康が死の床で高虎と自分の宗旨が異なるのが残念だというと即座に改宗する、というような明らかに媚びを売るようなこともしています。

しかしこれは大藩となった藤堂家を守るためであり、他の大名も多かれ少なかれ似たような逸話が残っています。

現代に残る高虎の悪いイメージを決定的にしたのは、鳥羽伏見の戦いにおける藤堂軍の裏切りだったのかもしれません。

最後に高虎は次のような言葉を遺訓として家臣たちに残しています。

寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし。

つまり今日こそ死ぬ日と覚悟して日々を送ればよい働きができる、と言っています。

高虎は体中槍傷や弾傷だらけで、手の指も何本か失っていたそうです。まさに日々を死と背中合わせに生きてきたからこそ言える言葉なのです。

執筆:Ju

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すみませんが、今治城の所で誤字があります。愛知県今治市となっていますが、愛媛県今治市のはずです。訂正された方がよろしいですよ。

Guidoor Media | ガイドア メディア編集部です。いつもご愛読いただき誠にありがとうございます。
ご指摘いただきましたとおり今治城の所在地表記にミスがございましたので、ここに訂正し、お詫び申し上げます。
(誤)愛知県今治市→(正)愛媛県今治市
ご迷惑をおかけいたしましたことを、深くお詫び申し上げます。また今後ともGuidoor Mediaを何卒よろしくお願いいたします。

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