島めぐり~未来の世界への道しるべ、瀬戸内海・豊島の産廃問題

小豆島から豊島に向かうフェリーより。小豆島とキラキラと輝く海。

国内最大の産廃問題に直面した瀬戸内海・香川県豊島<後編>ふたたび「豊かな島」へ

Part2では、瀬戸内海の島々で現代アートを鑑賞していくことの意義とともに、国際的な芸術祭開催のきっかけとなった豊島(Te-shima)という島についてご紹介しました。

本州(秋津島)に比べるとたいへん小さな島ですが、その自然条件と資源を最大限に活かしながら暮らしの場を充実させてきた豊島の人々──。

その活動は瀬戸内海でもダイナミックに展開されて南の島へとつながり、持続社会の構築がなされてきました。

 

小豆島から豊島に向かっているフェリーより。沢山の旅客船や貨物船がゆったりと航行して、瀬戸内海の時間が流れています。船が残していく真っ白い航跡と青い海とのコントラストは素晴らしく、アイランドホッピングならではの醍醐味です。

📷小豆島から豊島に向かうフェリーより。沢山の旅客船や貨物船がゆったりと航行していて、心地よい瀬戸内海の時間が流れています。海風や波しぶきの音、船が残していく真っ白い航跡と青い海とのコントラストはとても素晴らしく、まさにアイランドホッピングの醍醐味です。筆者撮影

 

「先進的な福祉の島」としても知られるほど高度で確かな社会づくりがなされてきた豊島は、その名前の通り、人と人、人と島がつながり、海ともコラボレーションしながら社会を創造することができる「本当の意味での豊かな島」であったのです。

Part 2の記事はこちらとなります。 【島めぐり~瀬戸内国際芸術祭の意義と「本当の豊かさ」のある豊島】

 

その豊島には、いま世界中から現代アートに関心を持つ人、環境政策や地域行政に関わる人、研究者や学生などさまざまな人が訪れています。

小さな島での「感じる時間」「考える時間」が、まさに未来の世界に向けた大切な「道しるべ」となっているのです。

 

豊島美術館。それ自体が一つの作品であるといいます。筆者撮影

📷建物そのものが水をモチーフとした現代アートである豊島美術館。内藤礼氏の「母型」という作品です。ここでは世界を相対化して自分自身に向き合っていく静かな時間が流れています。筆者撮影

 

国境を越えて世界の人々が注目するようになった豊島──。

Part 3では、まずこの瀬戸内海の島で一体何が起こったのか、ご一緒に詳しくみていくことにしましょう。

世界が注目する瀬戸内海の産廃問題と豊島の苦難の歴史

国内最大の産廃問題は、小さな島の大切な「親水域」で起きていった

問題の舞台となったのは、豊島の西端に位置する「北海岸」という所で、地元では「水の浦」ともいわれています。

こうした地名はご想像の通り、ここが海と密接につながり、「大自然の水循環」にとってたいへん重要な場所であることを意味しています。

 

豊島の概要図。島の西端に産業廃棄物の不法投棄現場となった北海岸があります。
豊島の概要図

 

戦後間もない1948年の開発前の空中写真を見ると、瀬戸内海の潮流と波の作用によって海岸部には砂がよく堆積していて、緩やかに曲線を描くように砂浜が続いていたことが分かります。

この北海岸は、かつては地元でも白砂青松と夕日のたいへん美しい場所として知られていました。

 

1948年時点の北海岸とその一帯。おそらく地中海のコート・ダジュール(紺碧海岸)地方とも遜色のない、たいへん美しい海岸であったことでしょう。国土地理院の航空写真より

📷1948年時点の北海岸とその一帯。開発前にはおそらく地中海北岸のコート・ダジュール(紺碧海岸)地方とも遜色のない、たいへん美しい海岸であったことでしょう。国土地理院の空中写真より

 

一帯の遠浅の海には、四季折々にさまざまな海藻が生育し、たくさんの生き物たちの“ゆりかご”となっていました。

日本の人々にたいへん好まれる海の幸──アサリはもちろんエビにタコ、岩場にはサザエやアワビ、カキも多く、豊穣の海であったといいます。

 

子どもたちも遊びに来ていたこうした「親水域」は、海洋リテラシーを深めて海と共に生きる文化を醸成していくための重要な「学びの場」ともなってきました。

まさに瀬戸内海の「交通の大動脈」の海域にありますから、きっと古代から先人たちもここを訪れていたことでしょう──。

📕海洋リテラシーとは、陸から海への、また海から陸への双方向的な影響に関する深い理解のことをいいます。人類社会にとっていま最も必要とされ、海洋教育の普及と充実が急がれます。

 

この北海岸一帯を開発し始めていったのは、比較的新しい時期に豊島に移り住んだという人であり、経営していた会社が島に30ヘクタールの土地を所有していました(東京ドーム6.4個分もの広さです)。

産廃問題は“島を削る”ことから始まった

1963年、香川県から土砂採取の認可を受けたこの開発会社は、つぎつぎと所有地の土壌を削り取り、フェリーに載せて島外へと運び出していきました。違法となる埋立ても繰り返していきます。

11年が経過した1974年頃には、先ほどの写真と比べると一目瞭然、緑豊かであった北海岸一帯がすっかり様変わりしています。

その影響は海にも及んでいて、土砂の流出によって混濁しているのが確認されます。

 

1974年時点の北海岸一帯です。たいへん様変わりしています。水際近くまで土砂が取り去られていますし、北側は埋立てによって海岸線が沖の方に前進しています。国土地理院の航空写真より

📷1974年時点の北海岸とその一帯。すっかり地面が露出しています。北側は埋め立てによってかなり海岸線が沖合に前進し、西側と南側も水際まで開発が進んでいます。国土地理院の空中写真より

 

地上部がよく分かる1975年時点の写真もご覧いただきましょう。

これは島の東側から撮影された北海岸の写真で、荒々しい開発が左手の山の斜面にまで及んで、まったく無残な状況です。海のそばでは地中の水が沁み出して大きな水たまりができています。

本来の地形がほとんど分からないほどの激しい開発──。

陸と海は一体ですから、陸上部のこうした人為的改変は瀬戸内海の自然の大循環や生態系はもちろん、人々の日常の暮らしや生産活動にも長期的影響を及ぼしていくことになるでしょう。

 

土砂採取場となった「水の浦」です。右手は北海岸で、東方向から撮影されています。掘り尽くされた地表には水が溜まっています。陸地と海は一体ですので、こうした開発は島の生産活動や暮らしに影響が及ぶことになります。豊島・島の学校より

📷土砂の採取場となり有機的空間が喪失してしまった北海岸の1975年の写真です。豊島・島の学校より

 

でもどうして瀬戸内海の島でこれほどの土砂採取がなされたのでしょうか?

またそれは一体どこへ向かったのでしょうか?

 

じつは豊島の地中には土砂とともに砂利や石材、珪砂(けいさ)というガラスなどの原料も含まれていました。

1960年代からの高度経済成長期、日本では都市開発や工業化の真っただなかでしたから、需要の高い原材料として大都市や工業地帯に輸送され、さまざまな用途に使われていったのです。

もちろん土砂も沿岸域の大規模な埋め立てのために大量に必要とされていました。

そのため全国各地で山地や平野部の土地が削られていき、海でも専用船で大量に海砂が採取されて現在に至っています。

📕コンクリート構造物に欠かせない「海砂」については、その枯渇とともに海の生態系の崩壊へとつながり、いま世界的問題となってきています。人間社会の大多数が暮らしている沿岸域の食料供給や人間の福利にも大きな影響を及ぼすこととなりました。日本でも人口の集中する三大湾(東京湾・伊勢湾・大阪湾)や瀬戸内海をはじめ、各地の海で大量に海砂が採取されていきました。

 

豊かな大地と海が失われ円滑であった自然の大循環や連続性のある生態系に問題が生じてしまうと、それは最終的には人間社会へとはね返ってきます──。

この開発会社の人々には、残念ながらずっと古代から瀬戸内海で醸成されてきた「大自然と融合した社会存続システム」がよく解らず、一時の限定的な経済利益だけを求めて島を削り取っていきました。

やがて原材料となりうるものを取り尽くすと、今度は産業廃棄物の処理事業を新たに計画していきました。

大都市や工業地帯で排出されて行き場のなくなった危険な廃棄物を引き取り、北海岸に埋めていこうとしていったのです。

豊島の人々の苦悩と挫折、止められなかった産廃処理事業の許可

変わり果てた北海岸とこの開発会社の挙動に懸念を深めていた豊島の人々は話し合いを重ね、1977年に「有害産業廃棄物の運搬・処理事業」の許可をこの開発会社に下ろさないでほしいと香川県に要請していきます。

さらに想像を絶する島の破壊が行われていくことはもう明白でしたから。

 

ですが、要件を整えて事業を進めさえすれば安全、というのが当時の行政側のスタンスであり、その年2月に県知事が島を訪れて事業への反対は「住民のエゴ」であるとの見解を示したのです。

「瀬戸内海・島とともに生きる」という大前提を欠いた行政トップの言葉は後々までずっと豊島の人々を苦しめていくのですが、そうした苦悩のなかで住民会議が結成され、県議会に対して処分場の建設中止を要請していきます。

そのような活動は、豊島の人々にとってはまったく経験のないことだったのですが──。

 

その翌月、開発会社を指導しながら環境に配慮して産廃処理事業を推進していくとの県議会での知事の発言を受け、豊島の人々はすぐに各世帯から1人ずつ、フェリーやチャーター船に分乗して高松の県庁へと向かい、県と交渉していきます。

この時の写真をご覧ください。

 

1977年3月4日、事業者に廃棄物処理の許可を下ろさないようにと、香川県側と交渉している豊島の人々。たいへん切実な状況と会場の緊迫感が伝わってきます。豊島・島の学校より

📷1977年3月4日、廃棄物処理事業の許可を下ろさないでほしいと香川県側と交渉している豊島の人々。豊島・島の学校より

 

人々が置かれた切実な状況と会場の緊迫感が伝わってきます。

この時、豊島の人々はどのような信念や思いを抱いてこの厳しい状況に向き合っていたのでしょうか?

高松市内で配布された当時の要請文からは、多くの人が瀬戸内海・島とともにある暮らしをしっかり見据え、かつての「豊かな島を取り戻す」ことが島内で広く共有されていたように思われます。

 

■「…私達の大多数は、豊かな自然の恵みによって生活を営んでいます。今ここで、産業廃棄物処理工場の建設が強行されたなら、私達は生活の場を失うことになります。香川のみなさん、私達は自然を守り、その美しい自然を子供達に残していく責任があります。私達は、知事に真に実りある対話を求めて、いく度でも高松へ来る決意です。みなさんの力強いご支援をいただくことができますよう、切にお願い申し上げます。」1977年3月4日付の豊島自治会連合会の要請文 豊島・島の学校より(傍線は筆者)

 

自身の生きる場を捉えた確かなまなざしとコミュニティの力こそが、まさに「豊かな島」を創造してきた源泉であったのでしょう──。

ですがこの後、豊島の人々の希望とは正反対の方向へと事態は進みました。

 

知事の方針は変わらず、豊島の人々は世帯主583人(島内のほとんどの世帯にあたるといいます)が原告となって高松地方裁判所に「処理場建設差止請求訴訟」を起こすのですが、そのさなかに開発会社が「土壌改良剤化処分業」への転向を示し、1978年2月、県の廃棄物処理事業の許可が下りることとなったのです。

そして無害とされた特定の汚泥(製紙汚泥、食品汚泥、木くずなど)に限って事業を認めるとする裁判の和解が、その秋10月に成立しました。

 

北海岸での事業自体を止めることができなかったこの不完全な結果に、豊島では多くの人が落胆したといいます。

危険な産廃をなんとか回避できたという考え方も島では交錯していたようですが。

ですが間もなく、すべての人がこの「和解」を後悔する事態へと直面していくのです。

心配が現実のものに

フェリーで次々と島に搬入されてくる大量の廃棄物──。

すぐにその野焼きが島で始まり、1983年頃からは扱わないはずであった危険な産業廃棄物──自動車のシュレッダーダストや有害物質を含んだ廃油などが本州各港から持ち込まれ、土砂採取場に埋め立て、あるいは焼却されていきました。

見るからに危険な廃棄物が家々の側を通過していき、強烈な黒煙が立ち上っていく日々。

県や町の立ち入り調査もなされましたが、事業自体が「金属回収の原料であり合法・無害」という行政的位置づけとされましたから、豊島への産廃の搬入は事実上黙認されていきました。

📕裁判の和解では、開発会社に対して事業内容を変更する際には住民と協議すること、被害を弁償すること、公害の発生時にはその原因を除去すること、という諸条件がありましたが、それらは守られませんでした。

 

四国高松の県庁からも見えたという産廃の野焼きの黒煙。低温での焼却は危険なダイオキシンなどを発生させることとなります。豊島・島の学校より

📷日常の暮らしのすぐそばで、砂煙を上げて産廃を積んだ大型ダンプカーが走っています。かつての「豊かな島」とは正反対の状況下において、豊島の人々は日々どのような思いで暮らしていたのでしょうか──。豊島・島の学校より

 

砂煙を上げて産廃を積んだ大型ダンプカーが走っています。豊島・島の学校より

📷四国の高松市内、県庁からも見えていたという産廃の野焼きによる強烈な黒煙。低温での焼却はたいへん危険なダイオキシンも発生させるのですが。豊島・島の学校より

 

こうして豊島では、ふたたび砂煙をあげてダンプカーが走るようになり、毎日のように野焼きの黒煙も上がるようになりました。

日中は「海陸風」によって海からの風が吹いていますし、冬場には強い西風が吹きつけますから、流れてくる黒煙に人々は絶えずさらされつづけます。

やがて島内では目の痛みやせき、喘息の症状を訴える人々が現れはじめ、子どもたちにも健康被害が及んでいきました──。

 

「豊かな島」自慢の農水産物も風評被害を受け、観光客の足も遠のいてゆき、生産者・地場産業は大きな打撃を受けていきます。

人々は「ゴミの島」という心ない言葉にもたいへん傷つき、子どもたちの行く末を心配しました。

事態は悪化するばかりで、このままでは島の未来はないという苦悩の年月──。

 

そうした10年余りのあいだにとうとう91万トン、霞が関ビル9つ分にもなるという膨大かつ危険な産廃(PCB、カドミウム、鉛、水銀、ベンゼン、トリクロロエチレン…などを含む)が北海岸一帯に蓄積され、深いところでは地下10数メートルにまで達しました。

地中の温度は化学反応を起こして温度計が40℃~50℃を示し、産廃から沁み出した黒い水が北海岸のあちこちに溜まっていきました。

 

島の見学施設では、産廃でいっぱいの地中の様子について展示しています。豊島・島の学校より

📷「豊かな島」の大地が大量生産・大量消費・大量廃棄のサイクルの帰結として危険な廃棄物で埋め尽くされていきました。豊島の展示施設では、地中の状況を詳しく見学することができます。筆者撮影

 

事態がいよいよ深刻度を増すなか、1988年5月、海上保安庁の姫路海上保安署が「廃棄物処理法」違反で開発会社を摘発し、半年後の11月に兵庫県警が強制捜査に入り、翌年初めに事業者が逮捕されました。

10年ものあいだ絶え間なくつづいていた豊島への産廃の搬入が、やっとここで止まることとなったのです。

産廃撤去というまた一つの大きな山

おそらく日本の島々の歴史が始まって以来となる瀬戸内海の小さな島で起きた国内最大規模の産廃問題──。

その一連の過程は広く海外へも報道されてこの問題がたいへん注目されるようになりましたが、このあと豊島の人々はすぐに長年の苦悩から解放され、問題も順調に解決されていったのでしょうか。

じつはまだまだ、大きな難問が目の前に立ちはだかっていました。

 

四半世紀にもわたる乱開発のあと、北海岸には膨大な量の危険な廃棄物が残されたままとなっていました。

というのも産廃の不法投棄は「合法・無害」という行政的位置づけのもとで進んだわけですが、島の生活環境には影響はないとする行政判断がそのまま続いていたからです。

 

自然の分解性を備えない危険な産廃と背中合わせに暮らすことはできません。

「豊かな島」を取り戻すための豊島の人々の模索が、ここからまた始まっていきました。

中坊公平氏をはじめとする弁護団(13名の方がボランティアでサポートしました)の支援を受けながら、1993年、全ての住民が県と開発会社、廃棄物処理を委託した企業に対して、島からの産廃の撤去を求める公害調停を申請していきます。

📕中坊公平(なかぼう こうへい)氏は1929年生まれ。「平成の鬼平」とも称された戦後日本を代表する弁護士で、元日弁連会長です。森永ヒ素ミルク中毒事件や豊田商事事件の被害者救済に奔走されたことが知られていますし、整理回収機構の初代社長を務められたことでも有名です。残念ですが2013年に亡くなられました。テレビなどでその人となりをご覧になられた方も多いのではないでしょうか。

 

豊島の人々はいく度も高松へと足を運び、東京の銀座にも出向いて都市住民に島の切実な実情とこの産廃問題が日本全体の問題であることを伝えていきます。

メディアにも臆さずに話していきました。

豊島の現状への理解はすこしずつ社会に浸透し、産廃問題の完全解決に向けて全国から30万人の署名が集まって香川県に提出されます。

 

ここは豊島の「こころの資料館」という所。たいへんな苦悩のなかで人々が拠り所とした場所です。「豊島の心を100万県民に」と書かれている横断幕からは、私たちの思いに気づいてほしい、という切実な思いと決意がたいへんよく伝わってきます。筆者撮影

📷ここは豊島の「こころの資料館」。長年の苦悩・苦労のなかで人々が拠り所とした場所です。「豊島の心を100万県民に」と書かれた横断幕からは、多くの人々にこの状況に気づいてほしいという思いがたいへんよく伝わってきます。筆者撮影

 

こうした一つ一つの活動の積み重ねによって公害調停の申請から7年が経った2000年、香川県との調停が成立しました。

行政側は謝罪をし、豊島の人だけではない多くの人が待ち望んだ「産廃の完全撤去と無害化処理」へと大きく前進することとなったのです。

 

2003年から本格的に始まったその「産廃の完全撤去と無害化処理」事業では、豊島の北海岸で回収された産廃はまずはそこで中間処理(分類のされて小さく裁断)され、フェリーで隣の処理施設のある直島に運ばれて無害化処理(溶融)されていきました。

地中からしみ出し溜まったままの産廃場の水も、たくさんの工程を経て少しずつ浄化されていきました。

 

豊島にある高度排水処理施設内の浄化設備の一つです。産廃場の遮水壁内の水は、地下水を含めて危険なダイオキシンをはじめ基準値以下に浄化されていきました。とても長い工程をかけて。

📷見上げるほど大きなこのタンクは、豊島にある高度排水処理施設内の浄化設備の一つです。産廃場の遮水壁内に溜まっていた水と地下水は、危険なダイオキシンをはじめ基準値以下に浄化されていきました。とても長い時間、長い工程をかけて。筆者撮影

 

歴史的な公害調停の成立から17年が経過した2017年、ようやく「産廃の完全撤去と無害化処理」という国がかりの大事業が終了となりました。

ですがその後も豊島では産廃が発見されてきていますし、地下水の浄化も必要とされています。

元の美しい北海岸がよみがえるには何世代にもわたる時間をさらに要することになるのでしょう──。

 

当初の土砂採集を含めると半世紀以上にも及んだことになる豊島の産廃問題。

でもどうして瀬戸内海の「豊かな島」でこれほどの人々を翻弄させる大問題が生じることとなったのでしょうか。

この問題の本質とは一体何だったのでしょうか?

 

瀬戸内海とともにある豊島、ふたたび「豊かな島」へ

豊島の産廃問題が教えてくれること

かつて「世界の宝石」「東洋の楽園」ともいわれた瀬戸内海──。

その小さな島で起きた国内最大の産廃問題は、いったん大自然を破壊してしまうと、その回復はもちろんのこと、人々の健康や日常の暮らしを取り戻すためにとてつもない時間と労力、そして莫大なコストを社会全体が背負うことになるというたいへん大きな教訓を残しました。

 

そのコストですが、実際、自治体や国が費やした公費は770億円にものぼり、豊島のコミュニティとしても高松や東京へと公害調停に出向くために1,000万円近くの負担をした年もあったといいます。

当然ながら各家の出費も医療費や交通費をはじめ相当あり、これらは本来ならば生活の充実、未来への投資のために使われるはずのものでした。

 

確かに豊島の切実な声が社会を動かし、新しいルールによって不法投棄の罰則が強化され、排出者が最終責任を負うことになったことは大きな一歩でしょう。

また行政のより良い管理体制やリサイクル、近年では3R(リデュース、リユース、リサイクル)という考え方が浸透してきています。

豊島が環境再生のシンボルとして世界的に知られるようになったことは、社会全体が一歩前進していることの何よりの証といえそうです。

 

豊島石の石垣によって築かれた「段々畑」では、季節の野菜、可憐な花の豆類や玉ねぎが伸び伸びと育っていました。その上段は棚田です。これから田植えを待つという時期です。自然と融合した暮らしがここにはあります。筆者撮影

📷豊島石の石垣によって築かれた「段々畑」では、よく手入れされた野菜──可憐な白い花を咲かせた豆類や玉ねぎが伸び伸びと育っていました。その上段は棚田で、これから田植えの時期に入っていきます。自然と融合した穏やかな暮らしがここにはあります。奥にすこし見えている白い建物(右)が「豊島美術館」です。筆者撮影

 

ですが現実問題として、今日も廃棄物処理の問題は日本の全国各地でみられますし、地球温暖化やマイクロプラスチックの問題など私たち自身の存在を危うくするグローバルな問題へとむしろ深刻化しています。

最新の科学技術を用いて化石燃料やモノを大量に生産・消費し、そのまま廃棄してきた近代期以降の社会経済活動をどのように調整し、大自然に融合させていくのか──。

大きな課題は今も残されたままとなっているのです。

 

豊島の人々が思いもよらず直面していった産廃問題の構造はこうでした。

まず都市開発や工業化にとって欠かせられない大量の土砂が豊島で採取されて大都市や工業地帯へと運ばれ、入れ替わりに行き場のなくなった大量の廃棄物が島に持ち込まれて土砂採取跡に埋め立てられていきました。

その有害な産廃は瀬戸内海の近隣の工業地帯だけではなく、じつは遠くは東京圏からのものもあったというのです。

 

戦後の急激な都市開発と工業化において、大量生産・大量消費のサイクルで行き場のなくなった産業廃棄物が豊島にも大量に持ち込まれることとなりました。
豊島の産廃問題の構図

📕この図は豊島と本州との物(物質)のやり取りを表したものです。あらゆる物が過不足なく、また生態系に支障とならない無害なもので循環していることが理想的であり、「持続性」を考える上でとても重要となってくるのです。このための人間社会の側のコーディネーション力が今まさに問われているのです。

 

それぞれの島での適量の生産・消費と最適な廃棄、そして島々相互の最適補完のバランスを崩してしまったことに、そもそも現代社会が豊島の産廃問題はもちろん、グローバルな世界規模の諸問題に直面することとなった根本的要因があったのではないでしょうか。

科学技術やエネルギー資源の賢明なる選択も、当然そこになくてはなりませんでした。

 

でもそうした人間社会の側の絶妙かつ繊細な調整は、いったいどうしたら可能となるのでしょうか。

まずは私たち自身が、地球の大循環や自然の生態系を見据えながら、この生きている世界をしっかり捉えていく「確かなまなざし」を取り戻していかなくてはならないのかもしれません。

大自然からすっかり遊離してしまった人間社会をふたたび大自然へと融合させ、持続可能社会を構築していく──。

たいへん大きな課題ですが、きっとそのプロセスでは「豊かな島」へとまた歩み始めた豊島が、私たちの道しるべとなって絶えず教えてくれることでしょう。

 

豊島、世界の人々の「学びの島」へ──大自然と人間社会との関係性を取り戻す

豊島には近年内外からたくさんの人が訪れていますが、多くの人が目指す場所の一つが「豊島美術館」です。

この美術館は島の東部、唐櫃(からと)地区の段々畑や棚田に囲まれた、海を望む丘の一角にあります。

 

豊島唐櫃港の待合所。豊島美術館ゆきのバスが発着する所です。自転車や徒歩で美術館に向かう健脚のもち主もいます。筆者撮影

📷ここは豊島唐櫃港の待合所で、豊島美術館行のバスに乗ることができます。徒歩やレンタサイクルで颯爽と向かう健脚のもち主もいます。海風を感じながら地面を踏みしめて歩みを進めていくのはたいへん心地よいものです。目的地に着くまでの時間は、それぞれの人にとってどのような時間なのでしょうか…。筆者撮影

 

豊島美術館のチケットセンター。さまざまな国籍の人がここで受付をしていました。筆者撮影

📷さまざまな国から訪れた人で賑わう豊島美術館のチケットセンター。ここで受付を済ませて、大きな重い荷物も預けておきます。筆者撮影

 

豊島美術館に向かう周回路。この小路の先でどのような体験をすることができるでしょうか。筆者撮影

📷豊島美術館に向かう周回路です。視界に入ってくる多島海を満喫しながら緑の小路をゆっくり進んでカーブを曲がっていくと──。筆者撮影

 

2010年に開館した「豊島美術館」は、緑濃い森のそばに建っていて、建物そのものが水をモチーフとした斬新な現代アートです。

そっと内部に入ってみると、大きく開いた丸い天井からは青い空が見え、自分の出すわずかな音までが木霊していく静寂の世界──。

 

その独特の音や自然光に慣れてくると、床から湧き出てくる小さな泉の存在に気づかれることでしょう。

水は複雑な動きをしながら音もなく大きく合わさっていき、やがてスーっと姿を消していきます。

 

おそらく多くの人が自分自身を自然と一体化させながら、大自然の循環や命のつながりについてそこで感じ取ることと思います。

現代アートの鑑賞を通して世界を相対化していくという貴重な時間が、ここでは静かに流れているのです。

豊島は今、私たちとこの現代社会がふたたび大自然と融合していくための学びの島となり、未来の持続社会への大切な「道しるべ」となっているのです。

 

豊島に向かうフェリーから撮影した小豆島。瀬戸内海の輝く海とたくさんの島々。再び大自然と融合した本当の意味での「世界の宝石」「東洋の楽園」になると素晴らしいですね。

📷豊島に向かうフェリーから見た小豆島。瀬戸内海の輝く海とたくさんの島々のなかを進みます。ふたたびここが大自然と融合した本当の意味での「世界の宝石」「東洋の楽園」になっていくと素晴らしいですね。筆者撮影

 

世界的にも類まれなる多島海、瀬戸内海──。

傷ついた島を元気づけ、ふたたび希望の海にしていく「海の復権」を掲げたこの瀬戸内国際芸術祭は、現代アートの鑑賞を通してきっと未来の世界への大切な視点、新しい発想を私たちにもたらしてくれることでしょう。

 

それでは瀬戸内海でのアイランドホッピング、次回からは「石」をキーワードにご一緒に島々をみていくこととしましょう。

あのイースター島と同じくらい、いえもしかしてもっと驚くミステリーがそこにあるかもしれません。

 

◎豊島の産廃問題については、ぜひこちらのホームページの詳細な記録をご覧ください。

  【豊島・島の学校】

 

🚢 瀬戸内国際芸術祭の概要と瀬戸内海の歴史はこちらです。

  【瀬戸内国際芸術祭と瀬戸内海の島めぐりPart1】

🚢 瀬戸内国際芸術祭開催のきっかけとなった豊島産廃問題の前編もぜひご覧ください。

  【島めぐり~瀬戸内国際芸術祭の意義と「本当の豊かさ」のある豊島】

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