「巨石」の島めぐり~イースター島と瀬戸内海の島々のミステリー

ミステリアスな巨石というと何をイメージされますか?

エジプトのピラミッドにイギリスのストーンヘンジ、南米チリにあるイースター島のモアイ像を思い浮かべるという方もおられることでしょう。

 

でもこうした世界的に知られる遺跡の巨石と同じくらい、もしかしてそれ以上にミステリアスな所があるのをご存知ですか?

それは世界有数の多島海である日本の瀬戸内海 Seto Inland Sea です。

なにしろ多くの巨石が島から島へと海を渡っていたのですから──。

秋の夕暮れ時。黄金色に染まった瀬戸内海もまた幻想的で素晴らしいものです。このあと四国の方角からゆっくりと月が登って海の上に「月の道」をつくるのです。

📷秋の夕暮れ時。黄金色に染まった瀬戸内海もまた幻想的で素晴らしいものです。このあと四国の方角からゆっくりと月が登り、海の上に「月の道」をつくるのです。筆者撮影

不思議にも現代の日本では、国内の巨石にまつわる話は一般に知られていないようですが、今回からは「石」をテーマに瀬戸内海の島々のミステリーを辿ってみたいと思います。

 

世界の巨石文明のミステリー

イースター島と「未来を生きる」モアイ像

世界の遺跡に残された巨大な石の構造物をめぐっては、いったい誰がどのような目的で、そしてどのようにして造られ現在に至るのか、これまで世界中の研究者が当時の社会情勢・形態とともに解明しようとしてきました。

ですが今もっていずれも全容は分からず、残された巨石の詳しい由来について人類社会の探究は尽きません。

 

現代の私たちにとっては各地の巨石それぞれがたいへん意味深長な存在としてありますが、とりわけイースター島 Easter Island のモアイ像は異色といえるでしょう。

なぜなら、まず太平洋に浮かぶ小さな島の遺跡ということがありますし、火山灰が堆積してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)を彫って造られたモアイ像は、大きいものでは高さが21m、重さが270トンもある巨大な人物像です。

 

しかも「未来を生きる」という意味の込められたモアイ像は、900体ほどが島の至るところで倒され壊されていました。

作りかけのままで放置されていた作製現場にも、ただならぬ気配が満ちています。

そしてわずかな末裔の人々以外に、この巨大な石像群を創り上げた社会の痕跡がほとんど残されていないのです──。

南米大陸の西約3,600kmに位置する亜熱帯の島、イースター島。周囲は60 km、面積は163.6km2、最高点は500m。約50万年前の火山噴火で島が形成され、島には3つの休火山と火口湖があります。島内の遺跡は2万ヶ所以上あり、1995年の世界文化遺産の登録により世界中から観光客が訪れています。

📕南米大陸の西、約3,600kmに位置している亜熱帯の島、イースター島。周囲は60 km、面積は163.6km2、最高点は500mです。約50万年前の火山噴火で島が形成され、島内には3つの休火山と火口湖があります。この島の遺跡の数は2万ヶ所以上もあり、1995年の世界文化遺産の登録によっていま世界中から観光客が訪れています。Canadian Geographic September1,2010より

 

イースター島とモアイ像が意味することとは?

このミステリアスなイースター島について、「資源の過剰開発によってみずから破壊した社会」と指摘しているのが、世界的に知られるアメリカの生物地理学者、ジャレド・ダイアモンド Jared Diamondです。

📕『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの(上巻)』草思社文庫 2005年 p.189

ニュージーランドの研究者が行った湖底の堆積物に含まれる花粉の分析からは、島にはかつて大型のヤシの木が生い茂る豊かな森があり、21種類の植物が絶滅していることが分かっています。

首長ホトゥ・マトゥアの一族が最初に定住してから最も多い時には島の人口は2万人になったともいわれ、灌漑施設のある生産体制を持ち、これほどの石像群を創り上げていた社会ではありますが、衰退の道を辿っていったのです──。

ポリネシア人が大洋を航海して辿りつき、ラパ・ヌイ(大きい島、を意味)といわれていたイースター島。倒されていたモアイ像はおこされ、海を背に「アフ」といわれる祭壇にふたたび据えられました。温暖な気候に豊かな森林資源、繁栄していた人々に、一体なにがあったのでしょうか──。

📷ポリネシア人が大洋を航海して辿りつき、ラパ・ヌイ(大きい島、を意味)といわれていたイースター島。倒されていたモアイ像はおこされ、海を背にして「アフ」といわれる祭壇にふたたび据えられました。温暖な気候に豊かな森林資源、太平洋の島で生き抜く術を当初は有していた人々ですが──。NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版 2012年7月号より

こうした今日のイースター島の荒涼とした姿は、現代社会が直面している深刻な環境問題──地球温暖化やマイクロプラスチックなどの問題ともけっして無縁ではないでしょう。

もう一つ注目されるのは、太平洋の島々を行き交うためのカヌーの造船技術とそれを操る航海術がすっかり失われ、島に残された人々にはもうポリネシアトライアングルの島々をつなぐことができなくなってしまった、ということではないでしょうか──。

📕ポリネシアトライアングルとは、太平洋上の最も北のハワイと南のニュージーランド、そして東のイースター島を結んだ三角形の広大な文化圏をいいます(ヨーロッパの3倍の広さがあるといいます!)。

人間社会も自然の生態系の中に位置づけながら、島内部の円滑な循環サイクルと、外部との相互補完のためのネットワークを構築できなければ、「容易に文明崩壊に至る」ということをイースター島は現代の私たちに教えてくれているのです。

 

ところで、太古より「交通の大動脈」としてあらゆるものが島々を伝搬し、日本の社会や文化形成にたいへん深く関わってきた瀬戸内海──

もちろん、巨石が独りでに動くはずはありませんからおのずと「人間が動かしていた」ということになりますが、陸上でも大仕事となる石の輸送を、重機などのない時代に瀬戸内海ではどのように行っていたのでしょうか?

そして、そもそもの疑問として、なぜ人やモノが海を渡っていくのでしょうか?

瀬戸内海のダイナミックな「交通の大動脈」としての歴史を辿りながら、まずは「海を渡る」ということについてご一緒に考えてみたいと思います。

岡山県犬島の「犬島石」です。島の東側を海沿いに歩いていくと、白い風合いの良い質感の石の列が続き、「精錬所美術館」へと誘ってくれます。この犬島石は、中世の時代から各地へと届けられていきました。

📷ここは瀬戸内海の中央部、岡山県の犬島。見事に並んでいる石は「犬島石」です。港を出発して島の東側を海沿いに歩いていくと、質感の良い石の列が続いていて、「精錬所美術館」へと誘ってくれます。この犬島石は中世の時代から各地に届けられ、名石とされてきました。筆者撮影

 

瀬戸内海の「交通の大動脈」としての歴史

瀬戸内海は「世界有数の多島海」

世界最大の内海というと、300万㎢もあるという地中海ですが(日本の国土面積は37.8万㎢ですので8倍ほどの広さに)、ギリシャのエーゲ文明など、古代からその多島海において高度な文明が築かれてきたことはきっと多くの方がご存じでしょう。

 

乾燥した気候にたくさんの火山、紺碧の海、そして人間社会の辿っていった歴史が絶妙に合わさり、地中海の景観は私たちを惹きつけます。

多島海にはきっと文明の盛衰に大いに関わっていく不思議な力があるのでしょう。

 

その地中海の130分の1ほど、2.3万㎢の広さとなる瀬戸内海は、同じように大きな陸地に挟まれていて、東西が450㎞、南北が15㎞~55㎞という横長の海に、高密度に島々が分布しています。

ここは地中海東部のエーゲ海ととても似通った「世界有数の多島海」なのです。

瀬戸内海の島々とその分布の図となります。瀬戸内海には、周囲が100m以上ある大きな島だけでも727島あり(海上保安庁による)、古来より活発に人々が行き来してきました。
瀬戸内海の島々とその分布

📕島々は均一にではなく、大小の島々が東部、中部、西部にそれぞれ群島化して分布しています。The Vital Functions of Japan’s Remote Islands By National Institute for Japanese Islands 2009 p.10より作成。

島の数は、周囲が100m以上の大きな島だけでも727島あり(海上保安庁による)、古来より活発に人々が島から島へとアイランドホッピングしてきました。

大小の島々は中継地のような働きをし、人も物も、情報も文化も島々を伝搬してゆき、日本が「稲穂の国」と言われるようになっていったのもこのためなのです。

日本最古の歴史書である「古事記(こじき)」(712年完成)には、淡路島 Awaji-shimaをはじめ多くの瀬戸内海の島々が誕生していく神話が収められ今日に語り伝えられていますが、島々の存在やその働きがいかに大きいかがおわかりでしょう。

海が島々をつないでいく──港と船と航海術

島々の伝搬において重要となるのが、まずは「港(湊)」という存在であり、港同士がつながることによってあらゆるものを循環させ、その海域の島々全体を充足させていく大きな役割がありました。

その昔、港は「津」とも呼ばれ、本州もかつては「秋津島(あきつしま)」という島名でしたから、先人たちもここを港が沢山ある豊かな島、と捉えていたことが分かります。

「全国津々浦々」とよく聞かれるのも、じつはこのことが関係していたのです。

📕港と同じ意味の言葉として、「津」のほか「浦」「泊」もあり、各地で様々な表現がなされてきました。

 

そして、その港をつないでゆく立役者がまさに「船」であり、はじめは泳いだり何かにつかまったりしていた祖先たちは、しだいに丸木舟(まるきぶね)などの浮いて進んでいく乗り物を発案し、工夫を重ねて大海原を渡るようになりました。

すでに3万年前には、こうした船によって太古の日本列島に祖先たちが移り住んでいたといわれています。

すっかり陸地中心の生活となってしまった現代の私たちには、「島を目指して海を渡っていく」といっても現実感がなく、なかなか感覚として捉え辛いのですが、2019年7月に国立科学博物館が中心となって3万年前の航海が忠実に再現され、たいへん話題となりました。

台湾を出発した丸木舟には男性4人と女性1人、2日間夜も漕ぎ続けて与那国島を目指しました。
2019年7月7日~9 日に行われた実験航海。国立科学博物館より

📕丸木舟には男性4人と女性1人が乗り込み、台湾を出発して2日間、夜も漕ぎ続けて与那国島を目指しました。海上の風の音、櫂で水をかく音、波間を進んでいく音が聞こえてくるようです。

国立科学博物館のホームページで実験航海の様子を映像で見ることができます。【3万年前の航海 徹底再現プロジェクト】

 

200㎞にも及ぶその実験航海では、先人たちの巧みな造船・航海の技術が明らかとなってきました。

まずは石斧を用いて大木から丸木舟をつくり、黒潮のコースやうねり、風、太陽、星など、大自然を読み解きながら一致協力して海を漕いで渡っていったのです──。

それぞれの島に辿りついた人々は、船を進化させながら美しい貝や翡翠(ひすい)、狩猟に欠かせられない黒曜石(こくようせき)、土器をはじめ貴重なものを遠くの島々、さらには河川を遡って内陸地域へと届け、往復航海をつづけていきます。

やがて多種多様なものが海を渡っていくようになり、真っ白い帆を上げたたくさんの帆船が風待ち・汐待ちをしながら日本列島の沿岸をつなぎ、あらゆるものを動かすようになりました。

江戸時代に活躍した船。西洋型の帆船とはかなり異なり、コンパクトで帆の上げ下げも容易でした。こうした船を中心とする裾野の広い海の産業が各地に出来上がり、そこでの「ものつくり」は、近代期以降もずっと日本の産業の基盤となっていったのです
日本の江戸時代に活躍した西回り航路の帆船。日本財団図書館より

📕西洋型の帆船とはかなり異なり、日本の帆船はコンパクトで帆の上げ下げも安全で容易でした。一見シンプルな四角い帆は、角度やふくらみを調節して巧みに風を捉えることができました。こうした船を中心とする裾野の広い海の産業が各地に出来上がり、そこでの「ものづくりの技」こそが近代期以降も日本の産業の基盤となっていったのです。それにしても各地の天然資源が駆使され、風で走ってくれるこの船は、究極のエコシップといえそうです。

こうして江戸時代から明治初期の時代にかけては、瀬戸内海一帯もたいへん賑わっていたことはPart1でご紹介したところです。

🚢 瀬戸内国際芸術祭と瀬戸内海の歴史について。【瀬戸内国際芸術祭と瀬戸内海の島めぐりPart 1】

 

「海を渡る」ということによって様々な島に人が定着し、さらにはその島にはないもの、優れたものをお互いに補完し合いながら大小の島々がつながっていった日本列島──。

なかでもたくさんの島々が連なる多島海の瀬戸内海は、大洋から辿りついた先人たちにとってはまさに楽園のような存在であったのではないでしょうか。

太古からの「交通の大動脈」によって、やがて大自然と融合した社会、豊かな海洋島嶼文化がここに形成されていくことになるのです。

 

瀬戸内海──ここは海と島と人とが見事にコラボレーションしていくことのできる、世界でも類まれなる場所なのです。

それでは「巨石」の話に戻ることにしましょう。

 

巨石も海を渡っていった瀬戸内海

良質の花崗岩が産出された瀬戸内海の島々

「交通の大動脈」としての瀬戸内海では様々なものが行き交っていきましたが、とりわけ重要なものの一つに「石」がありました。

どの時代のどの社会においても石は木材とともにたいへん重要な建築資材であり、港や運河、石畳の道などの主たる公共インフラ資材であり、戦乱期には城郭・堀などを整備するためになくてはならないものでした。

耐火性・耐久性に優れていますので、灯篭や港の常夜燈、道標などにも使われてきました。

 

そのように高い需要のあるものでしたから、良質の石はたいへん価値の高いものであり、海上交易によって全国津々浦々をめぐっていたのです。

また石は、沿岸を航行する帆船にとっては船に積み込んで安定性を確保し、安全に海を渡っていく上でも欠かせられないものでした。

 

石の種類には、Part2でも登場した東京の桂離宮の灯篭として知られる豊島の凝灰岩のほか、花崗岩(かこうがん)といわれる石が多く、瀬戸内海一帯にはその名石を産出する島々がたくさんあります。

これは岡山県犬島の花崗岩で「犬島石」と呼ばれています。様々な色の粒からなる白みを帯びたたいへん綺麗な石で、海岸を歩いていると小さなカケラをたくさん見かけます。どの時代、どのような人がこの石をとり扱っていたのでしょうか…。

📷これは岡山県犬島の花崗岩で「犬島石」と呼ばれているものです。様々な色の粒からなる白みを帯びたたいへん綺麗な石で、海岸を歩いていると小さなカケラをたくさん見かけます。どの時代、どのような人がこの石をとり扱っていたのでしょうか…。筆者撮影

花崗岩は一般に「御影石(みかげいし)」ともいわれ、地下の深いところで溶岩(マグマを起源とする)がゆっくりと冷え固まり、地殻変動によって地表近くに移動してきたものです。

ですから、現在も活火山が111もあるという火山列島の日本には古い時代の火山活動を由来とする花崗岩がとても多く、本州はじめ各地で産出されてきました。

 

花崗岩は産地によって色合いや硬度、艶、粘りなどが違っていて、それぞれに不思議な美しさがあり大地のエネルギーを感じます。

この石が日本各地でご祖先を祀るために大切に使われてきたことにもうなずけます。

 

巨石が瀬戸内海を渡っていった証、大阪城

ですが、たとえその時代その社会に需要があり、良質な石があったとしても、それを切り出し、加工をしてから船に乗せていくのは並大抵のことではありません。

なにしろ陸上で一抱えくらいの石を運ぶにしても私たちには大仕事ですし、大きな巨石を扱うとなると危険も伴うため、とり扱う上での高い技術や特別な装備が必要となってくるでしょう。

そう考えていくと、巨石が瀬戸内海の海を渡っていくのは、果たして現実としてありえることなのでしょうか──。

 

ところがこのような高いハードルがあるにも関わらず、巨石が海を渡ったという確かな証が残されているのです。

かつて「水の都」といわれた大阪 Osaka のある場所に、じつは今も「海を渡った巨石」があることをご存知だったでしょうか?

それは歴史の大舞台となっていったあの「大阪城」です。改めて現在の大阪城の様子をご覧いただきましょう。

十重二十重の石垣に守られた勇壮な大阪城。全国から集められた石による石垣は、現代の大阪にとってどのような意味を有しているのでしょうか…。

📷大阪城ホール側の青屋門近くから見た勇壮な大阪城。全国から集められた石によって堅固に組まれたこの石垣は、現代の私たちにとってどのような意味を有しているのでしょうか…。筆者撮影

こちらは、すこし歩いて北側の極楽橋からみた大阪城。橋を渡っていくとそこにも石の世界が広がっています。

📷こちらはすこし歩いて北側の極楽橋からみた大阪城。橋を渡っていくとそこにも石の世界が広がっています。筆者撮影

現代も大阪の確かなランドマークとなっているこの大阪城は、江戸時代の初期に再建されたものです。

使われている石は100万個ともいわれ、幕府より命を受けた全国の大名によって各地の石がここに送り届けられました。

 

どこに目を向けてもまさに石また石、というこの大阪城ですが、大量に使われている石の中でも巨大さという点でひときわ目を引く石があります。

それは城の正面、桜門に据えられた「蛸石(たこいし)」といわれる石で、人の背丈の3倍ほどもある大阪城では最大とされている石です。

大阪城内で最大の「蛸石」。その名前の由来は、石の左側に蛸の頭のような丸い線が浮き上がっているためで、鉄分が沁み出してできたといわれています。

📷大阪城内で最大の「蛸石」。名前の由来は、石の左側に蛸の頭のような丸い線が浮き上がっているためで、内部の鉄分が沁み出して出来上がった模様であるといわれています。筆者撮影

この石は高さが5.5m、横幅が11.7m、重さが130トン、桝形(ますがた)という城を守る上でたいへん重要とされる場所の石です。

もう一つご紹介しましょう。こちらは高さが5.5m、横幅は14m、120トン、石の表面積として次に大きいといわれている「肥後石(ひごいし)」です。

北西側の京橋門桝形にある大阪城内で2番目に大きな「肥後石」。こちらも瀬戸内海を旅して据えられた巨石で、小豆島で産出された石とされています

📷北西側の京橋門桝形にある大阪城で2番目に大きな「肥後石」。瀬戸内海の小豆島で産出された石といわれています。筆者撮影

ほかにもたくさんの巨石が城内に据えられていますが、いずれも元々この場所にあったものではなく、その多くが瀬戸内海の島々で産出された石でした。

最大の「蛸石」は、直線距離にして130㎞ほども離れた岡山県の犬島で産出された「犬島石」といわれていますから、確かに「巨石が海を渡った」ことはまちがいなさそうです。

これは瀬戸内海東部の図となります。干満の差が大きく、潮流のたいへん早い瀬戸内海を、巨石はいったいどのようにして海を渡っていったのでしょうか…。
犬島と大阪城の位置関係と推定される巨石の輸送ルート

📕これは瀬戸内海東部の図となります。干満の差が大きく、潮流のたいへん早い瀬戸内海を、巨石はいったいどのようにして海を渡っていったのでしょうか…。

それでは受け入れ側の大阪城でどうして巨石の搬入が可能となるのか、次に海の向こうから巨石を運び入れることのできた理由について詳しくみていくことにしましょう。

大阪は海を起源とする「水の都」だった

瀬戸内海を東へ東へとすすみ、大阪湾に到着した巨石──。

小さな島で産出された巨大な石が最終目的地へと導かれ、無事に陸揚げされることができたのは、大阪城が海とつながった川の上流域にあり、すぐ川岸に立地していたことに関係しています。

 

あの天保山の海遊館や中之島のユニバーサルスタジオからは9㎞ほど川を遡りますので、海からは距離的に離れた場所のように感じられますが、江戸時代の新田開発や明治時代以降の工業化・都市化によって大規模に海の埋め立てが行われる以前は、いまほど内陸ではなかったでしょう。

 

そして次の図をご覧ください。これは現在よりも温暖な気候であった縄文時代、今から6千年ほど前の大阪中心部を描いていますが、ご覧の通り、その大方が「河内湾」といわれる海でした。

この頃は海面が現在よりも1~2mほど高かったといわれています。

大阪は、海面の高い縄文時代には海岸線が深く入り込み、河内湾と呼ばれる海が広がっていました。
縄文時代の大阪中心部

📕大阪のまちがある一帯は、かつて海面の高い縄文時代には海岸線が深く入り込み、河内湾といわれる海が広がっていました。「水の都」としての出発点がここにあり、瀬戸内海という海と融合した社会が構築されていくのです。

次のやや寒冷な弥生時代になると海面は下がり、河内湾はその入口に発達していった砂州によってせき止められて淡水化し、一帯が湖となっていきます。

淀川(よどがわ)をはじめ多くの河川から絶えず土砂が供給されて堆積していきますので、5世紀の古墳時代の頃にはそこに大阪平野が出現したといわれています。

 

こうした大自然の変遷過程のなかで、上町台地(うえまちだいち)といわれる突き出た半島の先にあった砂州に古代日本の海の玄関口──難波津(なにわづ)がつくられ、内外からの様々な交易品や最新の情報・文化が届き、また広く各地にもたらされました。

7世紀半ばの飛鳥時代には、この繁栄の地に難波宮(なにわのみや)という都もおかれました。

 

時代はめぐりめぐって16世紀の終わり頃、戦国時代から泰平の時代へという大きな時代の移行期にさしかかった頃、この地に南北に走る運河を整備し、国内外の海上交易を推し進めていったのが、かの有名な豊臣秀吉です。

その桃山時代に町づくりと並行して大阪城の築城が行われ、やはり大阪湾からすこし川を遡った上町台地の先端に勇壮な城が姿を現したという訳です。

 

17世紀に入って江戸時代になると、この町の水運網はさらに広げられ、「天下の貨、七分は浪華にあり、浪華の貨、七分は舟中にあり」といわれるほど物資を積んだ多くの船がここを行き交っていました。

現在の大阪が上方(かみがた)といわれ「天下の台所」とも称されるようになっていったことはご承知の通りです。

水路が縦横無尽に走り、人びとの暮らしが海と共にあったということがよく分かります。大阪城も3本の川の合流地点に建っています。
暁 鐘成の「浪華名所独案内」の図。大阪市立図書館より

📕江戸時代になるとさらに臨海部の運河が整備されていきました。人々はいつも運河や水辺に接し、きっと海を意識していたことでしょう…。この案内図には米市場・青物市場・魚市場の位置も示されていて、活気ある町の様子が想像されます。イタリアのベネツィアという地中海の美しい「水の都」が思い起こされます。

この絵は、江戸時代後期に作られたいわば「観光ガイドブック」で、作者はPart1でも登場し、下津井の活気ある瀬戸内海を描いた浮世絵師、暁 鐘成(あかつき かねなり)です。

大阪の町には運河が縦横無尽に走っていて、海と共にあった当時の暮らしぶりがたいへんよく分かります。左端の3つの川の合流地点に大阪城が建ち、その手前には「船場(せんば)」といわれた活気ある商人たちの町が広がっていました。

もちろん石を取り扱う商人たちのエリアもあり、東西に長い運河のうち中よりの「長堀川」には、各地から帆船で運ばれてきた石を加工する石屋がたくさんあったといいます。

受け入れ側に海とつながった運河網が築かれ、「水の都」として水運による輸送機能を持っていたことが、巨石が海を渡っていくという世界でも珍しい現象をつくりだしていった大きな理由の一つであるといえそうです。

 

瀬戸内海の「巨石」のミステリー。そこには「多島海」「港・船・航海術」「良質の花崗岩」「水の都」が大切なポイントとして浮き上がってきましたが、同時に瀬戸内海の大自然に融合していく先人たちの絶妙な対応がみられ、この点もたいへん注目されます。

海と島は人間社会にとっては特別な存在であり、社会の持続的発展にとっても大切な基盤となっていくことを、この瀬戸内海の巨石のミステリーは現代の私たちに教えてくれているようです。

 

ですが巨石を送り出すことのできた小さな島々の側にも何か秘密がありそうです。なぜなら、実際に石を動かしていったのは人間のマンパワーであり、その社会なのですから。

巨石を動かすほどの島々の社会とはいったいどのようなものだったのでしょうか──。

いまにも動き出しそうなこの犬は、犬島を訪れる人が楽しみにしている永久展示の現代アート、「犬島の島犬」です。犬島は岡山県で唯一、瀬戸内国際芸術祭に参加している島で、近年海外からも多くの人が訪れています。

📷いまにも動き出しそうなこの犬は、犬島を訪れる人が楽しみにしている永久展示の現代アート、「犬島の島犬」です。犬島は岡山県で唯一、瀬戸内国際芸術祭に参加している島で、近年海外からも多くの人が訪れています。筆者撮影

大阪城最大の石を送り出していたのは「犬島」という珍しい名前の島でしたが、この島のことを覚えていますか?

次回は、犬島がいったいどのような所なのか、島めぐりをしながらさらに瀬戸内海のミステリーを解き明かしていくことにしましょう。

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