上海に殺到するユダヤ人 /「日本のシンドラー」杉原千畝物語(10)

ユダヤ人難民を保護した日本

1933年にドイツにナチス政権が誕生して以来、大量のユダヤ人難民が発生し、各国がその受け入れに難色を示す中、日本では1938年12月6日、時の首相近衛文麿の最高首脳会議である五相会議において「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決議。

この中で、ユダヤ人排斥は日本が長年主張してきた人種平等の精神(八紘一宇の精神)に反するとして、以下の3つの方針を定め、ドイツの反ユダヤ主義には追従しないことが決定された。

一、現在、日本・満州・支那に居住するユダヤ人は、他国人と同様公正に扱い排斥しない
二、新たに日本・満州・支那に来るユダヤ人は、入国取締規則の範囲内で公正に対処する
三、ユダヤ人を積極的に日本・満州・支那に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない(すなわち招致も可)

ユダヤ人難民はなぜ上海へ向かったのか?

ナチスドイツの脅威がヨーロッパ全土に広がるにつれ、数百万のユダヤ人が世界各地に逃げ出さざるを得ない状態になった。

ビザを持たないユダヤ人難民は、シベリア鉄道で満洲のハルピンを経由する陸路か、日本の通過ビザを取得して、ウラジオストクから敦賀・神戸を経由する海路のいずれかの方法で上海を目指した。

杉原千畝が日本の通過ビザを発行した6000人のユダヤ人難民の多くも、後者のルートにより上海へ向かった。

ではなぜ上海だったのか?

アメリカ・中南米・パレスチナでは、入国ビザの発給を非常に制限するなど、ほとんどシャットアウトの政策を取っており、ユダヤ人たちが欧州から逃げたくても世界は門戸を固く閉ざしていたのだ。

特に英国委任統治領パレスチナでは、多くのユダヤ人を乗せた難民船が海岸に着くと、その上陸を阻止するため陸上から英軍が機関銃の一斉射撃を加えるという非人道的行為まで行われていた。

そんな中、当時、入国ビザなしで上陸できたのは、世界で唯一、大日本帝国海軍が警備する上海共同租界の虹口(ホンキュー)地区だけだった。

杉原がリトアニアからの脱出を助けたユダヤ人の多くが持っていたビザの渡航目的地はオランダ領キュラソーであったが、これは杉原に日本通過ビザを発行してもらうための方便に過ぎなかったので、現実的にはビザを持たないのと同様であり、他に行く宛もないまま上海に向かう以外には選択肢がないという状況だったのだ。

こうして上海に辿り着いたユダヤ人を迎えたのが海軍の「ユダヤ人問題専門家」犬塚惟重大佐であり、犬塚は日本人学校の校舎をユダヤ人難民の宿舎に充てるなど、ユダヤ人の保護に奔走した。

旧日本海軍海軍の「ユダヤ人問題専門家」犬塚惟重大佐のモノクロ写真。
犬塚惟重

こうした努力により、上海にはヨーロッパからユダヤ人が続々と流入し、1939年には日本租界は約2万人ものユダヤ人で溢れかえっていた。

また、上海にはヨーロッパを追われた同胞を支援できるユダヤ人社会が存在したことも大きかった。

阿片貿易から不動産投資や銀行業等へ進出し、巨万の富を築いたサッスーン、カドーリ、ハイム、アブラハム、ハードンなどの大富豪はユダヤ人難民を経済的に支援した。

彼らは主に北アフリカ、中東、スペインに居住した祖先をもつセファルディ系ユダヤ人と呼ばれており、当時上海にはこれらセファルディ系ユダヤ人以外に、1880年代からロシアやヨーロッパで起こっていた反ユダヤ主義を逃れてきた、東欧諸国(ドイツ、ポーランド、ロシア)に居住した祖先をもつアシュケナージ系ユダヤ人が4000人ほどいた。

アシュケナージ系ユダヤ人は主にレストラン・本屋・パン屋・玩具店・皮革店・写真展などの中産階級を形成しており、戦時中、特にゲットー設置後の難民支援において重要な役割を演じた。

上海租界とは?

租界とは、1842年の南京条約により開港した上海に設定された外国人居留地のことであり、当初、イギリスとアメリカ、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強と日本の租界をまとめた共同租界と、フランスのフランス租界に再編された。

上海租界はこれらの租界の総称である。

上海共同疎開旗。
上海共同租界旗

Lokal_Profil, CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons

アヘン戦争敗戦後に締結された南京条約により、敗戦国である清国は上海を開港させられ、1843年イギリスが上海に土地を租借したのを皮切りに、1848年にはアメリカも虹口地区を租界として要求。

1863年にはイギリスとアメリカの租界が合併して共同租界となり、後に日本もこの共同租界に参画した。

フランスは、共同租界への参加を促されるがこれを拒否し、1865年独自の租界を造った。

租界は欧米諸国が中国に持った特殊権益の場所であり、植民地とは異なり、中国から合法的に土地を借りるというもので、行政権と治外法権が認められた、中国でありながら中国ではない特殊な場所であった。

多数の欧米列強の施政のもと上海は急速な発展を遂げ、1920年代から1930年代にかけて上海租界はその最盛期を迎えるが、1946年の太平洋戦争終結によりすべての租界は姿を消した。

上海の西洋建築群が並ぶ外灘エリアの華やかな風情ただよう様子。
当時「東洋のウォール街」とよばれていた西洋建築群が建ち並ぶ外灘エリア(がいたん、ワイタンあるいは英語ではバンド)。現在も租界時代の建物が残っている。

ちなみに、上海租界の最大の収入源はスバリ「阿片貿易」。

上海が開港した当時、外国企業のほとんどが阿片貿易に従事していたとされており、当時は合法的な外国製医薬品として輸入されていた阿片は、外国企業が上海で稼ぐ主要な手段だったのだ。

1840年後半になると、上海で陸揚げされた阿片は、全中国の輸入量の半分を占めるようになり、上海は広州を抜いて中国最大の阿片輸入港となった。

1900年代初頭まで、上海には1500箇所もの阿片販売店や阿片喫煙所が作られ、驚くことに阿片の喫煙所の方が喫茶店やレストランよりも多く存在したという。

こうした独特の背景により上海は「魔都」と呼ばれるようになった。

上海にも迫るナチスの魔の手

人の手のシルエットが白い布の向こうに沢山みえる。

ナチスドイツは「猶太人対策要綱」で定められた、上海のユダヤ人難民に対する日本政府のドイツからすれば「寛容な」政策を不愉快に思っており、様々な形で圧力をかけたが、日本政府が方針を変えることはなかった。

そこでナチスドイツが送り込んだのが、その悪魔的残虐さから「ワルシャワの屠殺人」の異名を取ったヨーゼフ・マイジンガーであり、マイジンガーは東京のアジア地区ゲシュタポ司令官に赴任した。

1942年7月、反ユダヤ主義に積極的に賛同しない日本に業を煮やしたナチス親衛隊(SS)長官ハインリッヒ・ヒムラーの命を受け、上海に出張したマイジンガーはユダヤ人迫害を拒否する日本政府にホロコーストへの加担を要求。

通称「マイジンガー計画」と呼ばれるナチスからの提案は、上海在住のユダヤ人を虐殺するため、2ヵ月後に迫ったユダヤ教の新年の祝祭ローシュ・ハッシャーナーでシナゴーグに集まるユダヤ人たちを捕え、その殺害方法として以下の3つの選択肢を用意したものだった。

1.廃船にユダヤ人を乗せ、東シナ海で日本海軍に撃沈させる

2.郊外の岩塩鉱で酷使し、疲労死させる

3.揚子江河口にユダヤ人収容所を作り、種々の人体実験に使用する

これらの提案は陸軍最大の「ユダヤ問題専門家」である安江仙弘大佐を経由し、外務大臣である松岡洋右に伝えられたが、松岡は「独伊と同盟は結んだが、ユダヤ人を殺す約束まではしていない」としてこの提案を拒否。

結果として、上海におけるユダヤ人の大量虐殺は実現しなかった。

上海に渡ったユダヤ人の運命

上海ユダヤ人記念艦の外観。
上海ユダヤ人記念館

上海に逃れてきたユダヤ人の大部分は、上海を最終的な移住先と考えていたわけではなく、アメリカなどへの移住ビザが得られるまで一時的に滞在するつもりだったが、日米開戦により上海で足止めを余儀なくされたのである。

1937年以前、上海にやって来たユダヤ人たちの生活は比較的安定していた。

しかし、1937年7月の日中戦争をきっかけに、彼らを取り巻く環境は日増しに悪化。

第二次世界大戦が開戦すると、上海のユダヤ難民はさらに厳しい立場に追い込まれていった。

同盟国ドイツの反ユダヤ政策への日本側の配慮という形でゲットーが設置され、日本政府のユダヤ人に対する政策も保護政策から監視政策へと変更していったのだ。

しかし、全てのユダヤ人を同列に扱った訳ではなく、セファルディ系ユダヤ人のうちイギリスとアメリカの国籍を持つ者は敵性外国人としてゲットーに閉じ込められたが、おなじくセファルディ系ユダヤ人でもイラク国籍の者やアシュケナージ系ユダヤ人に対しては特に規制は加えられなかった。

上海においてナチスドイツの「ユダヤ人問題の最終的解決」つまり組織的なユダヤ人の大量虐殺は、上述の通り、「マイジンガー計画」を外務大臣の松岡洋右が拒否したことで実現しなかったが、代わりに1943年2月に「無国籍難民隔離区」(通称:ゲットー)を設置し、同盟国であるドイツの働きかけに応えた。

このことは上海の新聞とラジオで「無国籍難民の居住及び営業に関する布告」として発表された。

1.軍事上の必要に基づき、本日より、およそ上海地区内に居住する無国籍難民は、その居住及び営業地区を以下の地区に限定する。共同租界内の兆豊路(現:高陽路)、茂海路(現:海門路)及び鄧脱路(現:丹徒路)のライン以東、楊樹浦河(現:楊樹浦港)以西、東煕華徳路(現:東長治路)、茂海路及び匯山路(現:霍山路)のライン以北、共同租界の境界線以南。

2.現在前項に於いて指定された地区以外に居住或いは営業中の無国籍難民は、本布告の公布日より昭和18年(中華民国32年)5月18日までに、その住所或いは営業所を前項に指定された地域内に移さなければならない。現在前項に指定された地区以外の無国籍難民は、その居住や営業上必要な家屋、店舗及びその他の設備を売買、譲渡或いは賃借しようとする場合、まず先に当局の許可を得る必要がある。

3.無国籍難民を除く人々は、許可を得ることなく第1項に指定された地域に移動することはできない。

4.およそ本布告に違反したり、本布告を妨害した者は、重罪を免れない。

上海方面大日本陸軍最高指揮官

上海方面大日本海軍最高指揮官

昭和18年(中華民国32年)2月18日

日本政府は本布告の公布に先立ち、無国籍難民を「1937年以降にドイツ(かつてのオーストリアやチェコを含む)、ハンガリーと旧ポーランド、ラトビア、リトアニア、エストニア等の国から上海に避難してきた現在国籍を持たない者」と定義。

ユダヤ人と中国人の少女たちが笑顔で並んで立っている様子。
上海ゲットーで撮影されたユダヤ人と中国人の少女たち

およそ2万人のユダヤ人難民がこのゲットーで生活をし、1945年8月の終戦を迎えた。

この間、ヨーロッパのような大虐殺が行われることはなかったが、それでも病気などで約2000人が死亡し、そのほとんどが老人と子供であった。

第二次世界大戦が終わり、1948年にイスラエル国家が建設されると、上海のユダヤ人のほとんどが新天地イスラエルへと去り、最大2万人ともいわれた上海のユダヤ人コミュニティは1957年にはおよそ100名となり、現在では数名を残すのみとなった。

次回へ続きます。

文/ガイドアメディア編集部
編集:Taro

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