日本領事館閉鎖とユダヤ人の運命 / ユダヤ人を救った「日本のシンドラー」杉原千畝物語(6)

ヒトラーとナチスドイツ武装親衛隊

杉原千畝が「命のビザ」で救えなかったユダヤ人の運命は

霧がかった薄暗い森の不気味な様子。

杉原千畝の必死の作業にもかかわらず、発給されたビザの数はすべてのユダヤ人を助けるには遠く及ばなかった。

逃げ遅れた多くのユダヤ人に迫るナチスの魔の手。

残された彼らを待ち受ける過酷な運命とは。

日本領事館閉鎖後のユダヤ人が直面した困難

ナチス・ドイツ武装親衛隊と彼らから子供を守ろうとしているユダヤ人の様子。
銃殺しようとするアインザッツグルッペンと子供を守ろうとしているユダヤ人

そもそも運良く「命のビザ」を入手できた難民たちのすべてが目的地たどり着けた訳ではなかった。

カウナスの日本領事館が閉鎖された1940年には、ナチス・ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスなどポーランドから西のヨーロッパをほぼその勢力下においており、ユダヤ人にとってドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは不可能であり、またトルコ政府によりビザ発給を拒否されたことで、トルコ領から直接パレスチナに向かう道も完全に閉ざされた。

リトアニアから生きて脱出するためには、もはやシベリア鉄道で極東に逃れる他に手段は無く、その乗車券を購入できるか否かに彼らの運命がかかっていた。

しかし事はそう簡単には進まなかった。

というのも、当時ソ連は戦争による出費がかさみ深刻な外貨不足に陥っており、その状況を解消するためシベリア鉄道の乗車券はソ連の国営旅行会社「インツーリスト」に外貨払いで予約購入しなければならないと決まっていたからである。

当然のことながら、命からがら着の身着のままで逃げてきたユダヤ人難民たちが潤沢な現金を持っているはずもなく、彼らにとって高額のチケット代という脱出のためのハードルは決して低いものではなかった。

一方、「命のビザ」を受け取ることが出来なかったユダヤ人たちの運命はどうなったのか?

彼らの多くは、悪名高いドイツの移動殺戮部隊「アインザッツグルッペン」(Einsatzgruppe)の手により殺害されたり、強制収容所に送られて絶命した。

恐怖の移動殺戮部隊「アインザッツグルッペン」とは

ナチス・ドイツ武装親衛隊とアドルフ・ヒトラーの様子。
ナチスドイツ武装親衛隊とヒトラー
Bundesarchiv, Bild 102-17311 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

アインザッツグルッペンの歴史は1938年のオーストリア併合まで遡るが、第二次世界大戦の独ソ戦において彼らによる虐殺は最も大規模となった。

ナチス党政権下のドイツの政治警察権力を一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊の実力者であった、のちの国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒにより創設された「アインザッツグルッペン」はオーストリア併合の際に組織されたのを始まりとして、チェコスロバキアのズデーテンラント併合、ポーランド侵攻、独ソ戦とドイツが東方へ領土を拡大するたびに編成された。

アインザッツグルッペンを創設したナチスドイツの高官 ラインハルト・ハイドリヒ

ラインハルト・ハイドリヒのモノクロ写真。
Bundesarchiv、Bild 146-1969-054-16 / Hoffmann、Heinrich / CC-BY-SA, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

ポーランド侵攻以前のアインザッツグルッペンは知識人・聖職者・政治家など指導層を対象として殺害していたが、独ソ戦においては主にユダヤ人やロマ、共産党幹部などが虐殺の対象となった。

ドイツ軍により都市が陥落すると、アインザッツグルッペンはその都市の「敵性分子」を集め、森や野原に追いたて、そこで一斉に銃で殺害した。

アインザッツグルッペンは、国家保安本部長官であるラインハルト・ハイドリヒ、あるいはハイドリヒの上官である親衛隊全国指導者兼全ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーの命令によって動いていたが、軍への臨時動員という形をとっていたため、形式的には国家保安本部に属さず、軍や軍集団に属した。

アインザッツグルッペンの指揮官は保安警察(ジポ)の秘密警察局(ゲシュタポ)と刑事警察局(クリポ)、そして親衛隊情報部(SD)などの将校たちで占められていた。

一方、その指揮の下に実際に銃殺を行う兵士たちは、国家の軍隊ではなく、政治的に信頼できる親衛隊員から成るナチスの武装部隊(党もしくはヒトラー個人の私兵で武装親衛隊と呼ばれた)と、クルト・ダリューゲが指揮する秩序警察(オルポ)のに所属する警察官が多かったという。

保安警察やSDは自分たちだけでは十分な人員を確保できなかったため、武装親衛隊や秩序警察から人員を借りたことから、アインザッツグルッペンは多くの所属が混ざった混成部隊となった。

アインザッツグルッペンは、以下の4つの行動隊で構成されていた。

A~Dの各隊は北部軍集団、中央軍集団、南部軍集団、第11軍に付属してその前線の後方で銃殺活動を行った。

【A隊】アインザッツグルッペA ヴァルター・シュターレッカー

フランツ・ヴァルター・シュターレッカーのモノクロ写真。

アインザッツグルッペAの司令官はフランツ・ヴァルター・シュターレッカー。北方軍集団に従って行動し、リトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国からレニングラードへ向けて進んだ。道中ユダヤ人や ロマ・共産主義者、その他ナチスにとって「好ましくない者」を大量に虐殺した。シュターレッカーはベルリンにアインザッツグルッペンAが24万9420人 のユダヤ人を殺害したことを報告している。

【B隊】アインザッツグルッペB アルトゥール・ネーベ

アルトゥール・ネーベのモノクロ写真。
Bundesarchiv Bild 101III-Alber-096-34, Arthur Nebe

アインザッツグルッペBの司令官はアルトゥール・ネーベ。中央軍集団にしたがって白ロシアからモスクワ戦線へかけて進軍した。道中ユダヤ人やパルチザンと目された人々を大勢殺害。ネーベが隊長を務める間だけでもB隊は4万5,467人の処刑の報告をしている。

【C隊】アインザッツグルッペ オットー・ラッシュ

オットー・ラッシュのモノクロ写真。

アインザッツグルッペCの司令官はオットー・ラッシュ。南方軍集団にしたがってウクライナに向けて展開。キエフでは1941年9月の終わりに、バビ・ヤールの峡谷において2日間で33,771人のキエフ在住ユダヤ人が虐殺された。(バビ・ヤール大虐殺)

【D隊】アインザッツグルッペD オットー・オーレンドルフ

オットー・オーレンドルフのモノクロ写真。
Bundesarchiv Bild 183-J08517, Otto Ohlendorf

司令官はオットー・オーレンドルフ。アインザッツグルッペDは、第11軍にしたがって南ウクライナを中心に活動しており、ここで9万人以上の民間人を殺害。

独ソ戦開始前のカウナスのユダヤ人人口は約4万であり、開戦後わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害されたのである。

アインザッツグルッペンは当初、主にユダヤ人男性を射殺していたが、1941年夏の後半になると、年齢や性別に関係なくユダヤ人を殺害し、集団墓地に埋めるようになった。

各地のユダヤ人はしばしば地元の情報提供者や通訳の協力で連行され、その後、塹壕が掘られた執行場所まで歩かされるか、トラックで輸送された。

捕らえられたユダヤ人たちは、自分自身の墓穴を掘らなければならないこともあったという。彼らは貴重品を没収され、衣服を脱がされた後、掘られた塹壕の前に立たされ、または掘られた穴にうつ伏せになった状態で、男性、女性、子供を問わず射殺された。

射殺は、アインザッツグルッペンが最も一般的に使用した殺害方法だった。

しかし1941年夏の後半に、大量射殺が部下に及ぼす精神的負担に気付いたハインリヒ・ヒムラーは、より簡便な殺害方法を開発するよう要求し、その結果ガストラックが生み出された。

これは、トラックの排気ガスに含まれる一酸化炭素を利用して、貨物トラックのシャーシに搭載された移動ガス室で犠牲者を殺害するものであった。

ガストラックは1941年秋の後半に東側前線に初めて登場し、その後アインザッツグルッペンが活動したほとんどの地域で、ユダヤ人やその他の多くの犠牲者を殺害するために射殺と共に用いられた。

外交官杉原千畝が1939年から1940年にカウナスにいた奇跡

緑茂る合間から光がさしている。

1939年から1940年という杉原のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、ユダヤ人難民の救済に効果を発揮しなかった。

後に杉原夫人は「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」と述べている。

リトアニアにおけるナチスの大虐殺については次回に続きます。

文/ガイドアメディア編集部
編集:Taro

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