シルクロードと仏教美術 / 世界に誇る日本の『天平文化』

『天平文化(てんぴょうぶんか)』は奈良時代の天平年間(729~749)を中心に栄えた日本の文化です。たったの74年間でしたが、現在の世界遺産クラスや国宝の仏像が数多く生まれ仏教美術、建築が栄えました。

シルクロード貿易や遣唐使たちからもたらされた「仏教」が日本式に昇華され、芸術的に高められました。

こうした多くの最高傑作の仏教美術作品を生んだ天平時代から14世紀が経った現代、残念ながら日本の仏教は衰退の危機にあります。

原因はお寺の後継者不足、少子高齢化、若者の宗教離れなどのためと言われています。

日本に現在約7万700ある寺院の内、25年以内に約4割に当たる2万7000寺院が閉鎖されると予想されています。

美しい庭園、禅の様式美や仏像が消えることは、日本の伝統文化の衰退です。

古来より育まれてきた日本の仏教芸術や伝統は、守っていかなければならない、大切な日本人のアイデンティティーのひとつではないでしょうか。

今回はそんな天平文化とともに華やいだ、仏教芸術の奥深い魅力をご紹介します。

(※過去の記事を編集し再公開しました。)

天平文化とは?仏像の最高傑作、誇るべき日本の仏教美術誕生

方丈前庭(瑞峯院 )の美しい様子。

CC BY-SA 3.0
方丈前庭(瑞峯院 ) 作者:Hiro2006 (大徳寺/Wikipedia)

天平文化とは、聖武天皇の元号「天平」を取って「天平文化」と呼ばれ、時期は7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをさします。

天平文化が栄えた天平時代には、シルクロード交易や遣唐使たちからもたらされた仏教が日本式に芸術的に高められ、仏像や建築など数多くの最高傑作が生まれ、仏教が栄えました。

天平時代の時代区分は奈良時代で、主に710年の「藤原京」より「平城京」に遷都された時から784年の「長岡京」遷都までの74年間をさします。

この74年間の間に仏像の最高傑作が生まれました。

日本にける薬師三尊 の最高傑作は薬師寺に納められている薬師三尊です。(下記写真)

薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式である。

(この場合の「左」「右」は中尊から見た「左」「右」を指す。)

月光菩薩は月の様な清涼をもって衆生の生死煩悩の焦熱から離れるという意味がある。

(薬師三尊/Wikipedia)

薬師寺旧金堂の様子。荘厳な雰囲気。

日本における薬師三尊 の最高傑作(国宝)薬師寺旧金堂 

天平時代は仏像崇拝が中心だった

天平時代の寺院建築は、「塔」を中心とする伽藍配置から「金堂」を中心とする伽藍配置に変わりました。

そして、礼拝の対象が「塔」から「仏像」に移り「仏像崇拝」となりました。

その結果、奥深い表現の仏像が数多くつくられ仏像のサイズも巨大化し、塔は境内の象徴的な建物と変化しました。

天平時代の国を鎮護する国家仏教として、国の重要政策の中に「造寺造仏」が組み込まれ大規模な建築工事が行われました。

つまり、「造東大寺司」という役所を設置し、1600人以上の技能者を雇い、造寺造仏が盛んに奨励しました。

東大寺盧舎那仏像の様子。

Mass Ave 975, CC BY-SA 3.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0, via Wikimedia Commons

官営工房では「仏師」を大事にし高給を与え、彼らによる数多くの美術品や仏像がつくられました。

そして質を保つために、仏師たちは徹底的な出来映え主義、作品の善し悪しで評価されました。

仏像に「仏師名」が記録されなかったのは、当時の仏師が国家公務員だったことと、分業で作品を仕上げていたからと言われています。

「脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)」の仏像作品が天平時代に多くみられます。

脱活乾漆造の仏像とは?

天平時代に「脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)」の仏像作品が多く制作されたのは、国家政策「造寺造仏」で仏像制作が奨励されていたのと「写実的な表現」が流行していたことが関係あります。

「脱活乾漆造」の素材そのものが、当時の流行であった写実的な表現に適していたからと言われています。

なぜならば「木彫像」のように補整が困難なのに比べ、加工性に富み修正しながら制作できる材料の特性が受け入れられたのでしょう。

東大寺法華堂にある国宝「不空羂索観音立像(脱活乾漆造)」のモノクロ写真。

不空羂索観音立像(脱活乾漆造)東大寺法華堂•国宝

「脱活乾漆造」の仏像は粘度で成形された原型に麻布を重ね、木粉と漆を練り合わせた物で細部をつくりこみ、漆を塗って仕上げられ、高価な漆を大量に用いる上、制作にもとても時間がかかります。

こうした日本の「脱活乾漆造」の仏像は、「漆と布だけでつくられた像」として世界的に貴重で有名です。

脱活乾漆造のつくり方

制作方法を簡単に説明すると、次の通りである。

まず、木製の芯木で像の骨組みを作り、その上に粘土(塑土)を盛り上げて像の概形を作る。

この上に麻布を麦漆で貼り重ねて像の形を作る。

麦漆とは漆に麦粉(メリケン粉のようなもの)を混ぜてペースト状にしたもので、接着力が強い。

麻布の大きさ、貼り重ねる厚さなどは像によって異なるが、おおむね1センチほどの厚さにする。こうしてできた張り子の像の上に抹香漆(まっこううるし)または木屎漆(こくそうるし)を盛り上げて細部を形作る。

抹香漆とは、麦漆にスギ、マツなどの葉の粉末を混ぜたものであり、木屎漆とは麦漆におがくず(ヒノキ材をのこぎりで曳いた際のくず)や紡績くずなどを混ぜたものである。

奈良時代には抹香漆、平安時代以降は木屎漆が主に使われた。

なお、像の形が完成した後は、背面などの目立たない部分を切開して中味の塑土を掻き出し、補強と型崩れ防止のために内部に木枠を組む。

(脱活乾漆造/Wikipedia)

麻布を丁寧に何枚も貼り重ね、漆で細部の微妙な表現をしていく……これらの造像技法は渡来人から伝えられたと言われていますが、「脱活乾漆像」の作品は中国、東南アジアには残っていませんが、古都奈良には数多く残っています。

これらは日本の誇る大変貴重な世界遺産です。

漆(うるし)とフランス王妃マリーアントワネット

漆のドロッとした様子。

「漆」CC by Charlie Huang, July 16, 2006 (漆/Wikipedia)

脱活乾漆造にかかせない漆ですが、日本では約6500年前の縄文時代、現在の福井県鳥浜遺跡にて出土された器物に塗られた物が、現存する最古の漆とされています。

古代より延々とその技術は受け継がれ磨かれ、漆器や仏像制作に使われました。

漆の特徴として、劣化しにくいことや接着・防腐効果もあります。

土器の接着・装飾に使われていたり、木製品に漆を塗ったもの、クシなど装身具に塗ったものも縄文時代の遺跡から出土しています。

岩手県浄法寺は国産の7割以上の漆を生産し、金閣や中尊寺金色堂、日光東照宮などの国宝や重要文化財の修復に使われています。

また、日本の漆工芸は世界的に名高く、漆器を “japan” と呼ばれるほどです。

「私は、ダイヤモンドより漆器」とオーストリア、ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアは言い、ウィーンのシェーンブルン宮殿に「漆の間」を設けた程、日本の芸術こよなく愛したそうです。

その母親の影響を受けて、フランス王妃になったマリー・アントワネットも漆器好きで、マリー・アントワネットのコレクションはヨーロッパでも質・量と随一のものとなりました。

特に金銀を用いて漆黒の地をきらびやかに加飾する蒔絵は珍重され、マリー・アントワネットら王侯貴族は競って蒔絵を求め、宮殿を飾ったそうです。

しかし残念なことに、近年国内で使用されている漆の98%は中国やベトナムから輸入されています。

天平文化の国宝、阿修羅像

シルクロードは東西の貿易や交通路としてだけ栄えただけではなく、宗教や文化交流という点でも重要な役割を果たしました。

シルクロード交易や遣唐使たちから、もたらされた仏教が日本式に芸術的に高められ、仏像や建築など数多くの最高傑作が生まれたのが天平文化です。

下記写真は天平文化の最高傑作の仏像一つ、阿修羅(あしゅら)像です。

天平文化・脱活乾漆造の最高傑作、「阿修羅像」の口を引き締め一点を見つめる表情。

天平文化・脱活乾漆造の最高傑作、阿修羅像(部分) 興福寺 国宝館

天平時代の仏像は写実的で表情も様々で、表現がとても奥深いです。口を引き締め一点を見つめる眼差しは寂しげで苦しげです。

人間の悪や刹那の部分、修羅場をまねく争いに対する祈りさえも感じます。

仏教伝承では、阿修羅は帝釈天(たいしゃくてん)と戦い続けました。滅ぼされても、何度でも蘇り永遠に戦い続けました。

阿修羅は悪鬼神と認識されることもありますが、もともとは天部の神でした。

なぜ阿修羅が戦闘の神となったのでしょう?こんな悲しい逸話があります。

阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。

阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天(とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。

また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。

しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。

それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。

(阿修羅/Wikipedia)

つまり阿修羅と帝釈天(たいしゃくてん)の戦いは「正義」の神と「力」の神の戦いで、2極点の価値観においての戦いです。

それ故に終わりの無い戦いなのです。

娘を略奪された阿修羅は”正義という復讐”のために、又は”復讐という正義”のために帝釈天を殺そうと戦います。

阿修羅が戦いに負け死んでも死んでも蘇り、帝釈天に挑むので永遠の戦いです。

帝釈天は「力」の神様なので、自分の力を誇示し続けるために戦いを挑んでくる阿修羅と何度でも戦い、永遠に勝たなければならない。

この戦いの世界には「慈悲」という価値観はないので、終わりがない。

まさに終わりのないの争いの修羅場です。

もう一度阿修羅(写真上)の深い表情を見てください。
寂しげで苦しげです。

あなたはどう感じますか?

帝釈天(たいしゃくてん)

帝釈天の図。

阿修羅と戦った力を司る神、帝釈天は別名、インドラとも呼ばれます。

インドラはバラモン教、ゾロアスター教、ヒンドゥー教の神の名称でもあり、そのルーツはとても古いです。

紀元前14世紀頃のメソポタミア地域でも信仰されていた神であったことが伝えられています。

インドとは反対に、イランでのゾロアスター教ではインドラは悪魔、アフラ(阿修羅)は善とされました。

文献によるとインドラは、4本の手をもち神酒ソーマ(植物でできた一種の興奮飲料)を飲み英気を養い、強大な力を発揮する武器ヴァジュラ(金剛杵)を持っています。

インドラの漢訳名が帝釈天で、仏教にも取り入れられ仏教の守護神の一つとなりました。

帝釈天を描いた日本最古の作品は飛鳥時代、法隆寺の玉虫厨子に描かれた「施身聞偈図」(せしんもんげず)です。

法隆寺の食堂(じきどう)にも、もともと梵天・帝釈天の塑像(奈良時代)が安置されておりましたが、現在は大宝蔵院に移されました。

奈良時代に建立された東大寺の法華堂には、乾漆造の梵天・帝釈天像が安置されています。

天平文化後期の最高傑作、唐招提寺金堂の盧舎那仏像

天平時代後期を代表する仏像といえば、奈良にある唐招提寺金堂に納められている盧舎那仏像(写真下)です。

唐招提寺にある世界遺産「乾漆盧舎那仏坐像(脱活乾漆造)」のモノクロ写真。

乾漆盧舎那仏坐像(脱活乾漆造)唐招提寺•世界遺産

盧舎那仏像が制作されたのは8世紀後半、阿修羅と同様「脱活乾漆造」です。

廬舎那仏は、大乗の戒律を説く経典である『梵網経』の主尊です。

写実的でふくよかな顔つき、全体的に重量感を感じさせるところが天平時代の特徴といえます。

天平時代前期につくられた阿修羅像と比較し、全体に縦より横への広がりが強調され、どっしりとした重さを感じさせるところが天平文化後期の特徴です。

さらに、横に切れ長の目、おおらかな唇、ゆったりとした輪郭線は天平時代後期の特徴です。

高さは約3メートル、光背の高さは約5mにもおよぶ巨像です。

光背の千仏光背は千体の仏があったものと思われますが、現存するのは864体です。

唐招提寺は1998年、古都奈良の一部としてユネスコ世界遺産に登録されました。

唐招提寺は鑑真が建立した寺院です。

遣唐使、鑑真

鑑真の像、「鑑真和上像」唐招提寺に安置されている国宝の様子。

「続日本書紀」によると、唐招提寺は鑑真が759年、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺を建立しました。

1957年に出版された井上靖の小説「天平の甍」で遣唐使•鑑真の生涯や存在は、広く世の中に知れ渡ったのではないでしょうか。

唐ですでに名高い僧侶になっていた鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請されました。

当時の日本では授戒資格のある僧が不足がしており、官の承認を得ず、課税免除の為に僧となる人もいて仏教界の秩序の乱れる原因となっていました。

そこで733年(天平5年)、日本から普照と栄叡という僧が遣唐使と共に唐に渡りました。

742年、鑑真に初めて会えた普照と栄叡は日本には伝戒の師がいないので、高僧を推薦して頂きたいと申し出ました。

しかし、鑑真の弟子たちは渡航の危険を理由に渡日を嫌がりました。

そこで鑑真自ら渡日の決意をし、命がけで海を渡りました。

渡航計画は苦難の連続でした。

748年5回目の渡航計画で船が漂流し、栄叡は病死していまい鑑真は失明しました。

753年、普照と栄叡が出会ってから、11年目、鑑真は66歳で来日に成功しました。

鑑真は晩年の10年間を日本で過ごしました。

来日し東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇に「菩薩戒」を授け、東大寺唐禅院に住みました。

759年、唐招提寺を建立し、763年76歳でその生涯を閉じました。

「東征絵伝 第一巻第一段(鑑真の得度) /紙本著色東征絵巻」 の図。

「東征絵伝 第一巻第一段(鑑真の得度) /紙本著色東征絵巻」 蓮行筆 1298年

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