杉原千畝「命のビザ」発給の舞台リトアニアへ 第二次世界大戦が迫る欧州(3)

外交官「杉原千畝」の欧州リトアニアでの最大の任務とは

第二次世界大戦の開戦が迫りつつある緊迫した状況のなか杉原千畝は外交官としてリトアニアに滞在していた。

上記の通り、当時のヨーロッパは急速に拡大するドイツの勢いに対し、イギリス・フランスは話合いでドイツの望むものを探り、妥協をもって現状の修正を図り、戦争を回避しようとするいわゆる宥和(ゆうわ)政策をとっていた。
しかしながら、小国を犠牲にして一時的な平和を得ようとしたこの政策は急速に強大化するドイツの前に破綻してしまう。

一方日本は友好国・ドイツが、共通の敵国であったはずのソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したことにより、日本外交はまさに大混乱に陥っていた。

杉原千畝が滞在していたリトアニアはバルト海に面した東欧の小国であったが、開戦を間近に控える、ドイツとソ連に挟まれた形の地理にあった。

杉原千畝最大の任務は、ドイツ・ソ連両国と緊迫するヨーロッパ情勢を探り、そこに巡る機密情報を収集することであった。

その任務の具体的内容は、1967年(昭和42年)に杉原千畝によって書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。

カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都でした。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。

リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。

ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。

周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。

大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。

しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。

それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。

それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。

Wikipediaより— 1967年に書かれた杉原千畝による露文書簡の冒頭部分)

1940年(昭和15年)ソ連軍がリトアニアに侵攻。杉原の元にもソ連から通達が届く。

「リトアニアは独立国ではなくなったため、各国は領事館を閉鎖し、領事館員及びその家族は、国外退去すべし」

残された時間はあとひと月。
出来る限りの情報を日本本国へ送ることで、杉原の任務は終わるはずだった。

杉原千畝のリトアニアでの生活 忍び寄るナチスドイツ・ゲシュタポの魔の手

杉原千畝が当時滞在していたリトアニアの日本領事館は一般の民家(アパート)の1・2階部分を借りて業務を行っており、杉原一家も同じ建物内に移り住んでいた。

本来、国を代表する外交官という特権的地位が認められているにも関わらず、彼らの生活にもナチスドイツの黒い影が密かに忍び寄ってきていた。

いわゆるスパイの存在である。

領事館には現地採用スタッフがおり、当時杉原の下で働いていた事務員のドイツ系リトアニア人ヴォルフガング・グッチェがいた。彼はナチスドイツ秘密国家警察(通称ゲシュタポ)のスパイであったという。

ドイツで権力を拡大し続け、危険な組織となっていたゲシュタポは、ドイツ国内のみならず、国外に逃亡、亡命した人々や、外交官、政府にも監視の目を光らせていた。反ナチス派、ユダヤ人の摘発や拘禁を行ない、それらの人々を匿ったり、協力の疑いがあれば躊躇なく逮捕、拉致監禁、暗殺を行なっていた。

「ゲシュタポ(Gestapo)」とは? 世界を震え上がらせた残忍な任務

「ゲシュタポ(Gestapo)」とは秘密国家警察をさすドイツ語、ゲハイメ・シュターツポリツァイ(ドイツ語: Geheime Staatspolizei)からその名はきている。

ゲシュタポは1933年、ナチス・ドイツ期プロイセン自由州(※)のプロイセン秘密警察として州内相であったヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)が発足させた。

※プロイセン自由州
第一次世界大戦末期のドイツ革命でプロイセン王国が解体された後にできた州。州都はドイツの首都でもあるベルリン。当時のドイツの国土と人口の過半数を占める州だった。

ベルリンのナチスドイツ秘密国家警察ゲシュタポ本部のメインホールにいるヘルマン・ゲーリング首相ら。(1934年)

Bundesarchiv、Bild 102-16180 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

ベルリンのナチスドイツ秘密国家警察ゲシュタポ本部
Berlin SW 11, Prinz-Albrecht-Straße 8.

Bundesarchiv, Bild 183-R97512 /Unknown author/CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

その後1934年にナチス親衛隊(SS)が指揮権を握り、1936年には活動範囲を全ドイツに拡大させる。第二次世界大戦中にはドイツが占領したヨーロッパの各地域を中心に、さらに活動を広範囲に広げてゆく。

ハインリヒ・ヒムラーと話し合いをするゲシュタポ長官ラインハルト・ハイドリヒやナチスドイツ親衛隊将校たち
ミュンヘンのビュルガーブロイケラーにて(1939年11月8日)

Bundesarchiv, Bild 183-R98680 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 DE, via Wikimedia Commons

ゲシュタポが行なった主な任務には反ナチ派や反体制派、レジスタンス、スパイなどの摘発、拘禁、ユダヤ人狩りなどであった。

国内外の反ナチ派勢力の粛清・暗殺・処刑を行うとともに、ユダヤ人の拘束、絶滅収容所や強制収容所への移送、銃殺活動なども行っていた。

不当な突然の逮捕、劣悪な待遇での拘束、冷徹残酷な拷問、取り調べ、などその残忍で反人道的な活動はドイツ国内外、ヨーロッパのみならず世界中の人々から恐れられた。

外交の世界ではスパイ活動などは想定内のこととはいえ、ゲシュタポに行動のすべてを監視される杉原千畝の生活がいかに窮屈で恐ろしいものであったかは想像に難くない。

ここまでが、杉原千畝がユダヤ人を救った「命のビザ」大量発給の1年前までの出来事だ。このような過酷な状況のもとで杉原は如何にしてユダヤ人たちの命を救うことが出来たのだろうか。

次回に続きます。「杉原千畝物語」(4)近日公開予定

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2件のコメント

戦時中にも拘らず、3にんもの心ある偉大な人物が現れて、尊い命を救えたのに、

なぜ現在のウクライナの人々を、救えないのかもどかしいです

ニコラス、ウイントンの「未来は子供たちしか変えられない」という言葉は重いです

大変興味深く読ませて頂きました。時代が変わった今でも当時のような状況はあります。只々残念と同時に人間の愚かさを強く感じます。だからこそシンドラさん、杉原さんが取り上げらると思います。

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